https://9ch.net/ZCrRC
私が生まれた広島県の被差別部落のはずれに、
ひとりだけ、掘っ立て小屋のような家に住む孤老がいた。
うちの部落の住民のほとんどは、定住・農耕を生活の基盤に置く人々だったが、
竹細工と魚とりを生業にするその老人は、ボサボサの白髪の仙人めいた風貌で、
明らかに私たちとは違う文化圏の住人であることを感じさせた。
家の外を歩いていて、たまにその孤老を見かけることはあったが、面識もなく、
なんとなくその風貌が子供心に不気味だったこともあり、口をきいたことはなかった。
当時(1980年代中頃)は、部落解放運動の一環として、
郷土の部落史づくりが盛んになっていた頃で、各地で聞き取り調査が行われていた。
そんな流れの中、父がその孤老に話を聞きにいくというので、私も一緒についていき、
島根県の方まで竹細工や魚を売り歩いていた話や、
道具を使わずに魚を捕まえる方法など、いろいろ面白い話を聞いた。
一般的な広島弁とは違う、ちょっと引っかかるような独特の発声が印象的だった。
たぶん実家には当時の録音テープが残っていると思う。帰ったら聞きなおしてみたい。
その後は、外でじいちゃんと顔をあわせたら、あいさつするようになった。
にっこり笑ってあいさつを返してくれたじいちゃんの苗字は「竹屋」だった。
たぶん通称がそのまま呼び名になって定着したのだろう。
数年前、『サムライチャンプルー』制作中の渡辺信一郎監督に取材したとき、
この話をしたら、身を乗り出して聞いてくださった。
おそらく、じいちゃんは、サンカの末裔だったのではないか。
農商務省の高等官僚であり民俗学者な柳田国男のエッセーだっけな~
官僚で地方視察してる最中、向こうに見える山並みから幾つもの煙が立っていた
「ああ、山窩だ」って一節が出てくる
当時の政府も彼らの生息を確保してませんでした
ところが、戦後ある1つの法律が施行されます
この法律のために多くのサンカ達が山を下山させられました
その一種の悪法と言ってよいのがこの法律だと聞いております
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%8F%E6%B0%91%E7%99%BB%E9%8C%B2%E6%B3%95-1336461
1950年に施行
さて、なぜ1950年なのか分かりますか?
窮民革命論の一番早い気づきか
日本の左翼がこの鉱脈に気づくのは干支一回り+アルファくらいの年月がさらにかかったけど
https://9ch.net/F7Uqy
個人的に興味を引かれた部分は、父・友一についてである。
一部には、先祖代々から家があった訳ではなく山中から降りてきた、
竹細工売りなどをしていた話は一部報道されていたが、
本書に出てくる周辺住民の「噂」を加味すると、
生活困窮民(漂流民というより難民)としてのサンカのような暮らしぶりが想起される。
彼が眠る保見家の墓の見開き写真も強烈なものがあった。
拾いだけど地方は色々な風習が残っているんだよね。皇室もお米のとぎ汁で体
あらったり色々あるらしいし。お葬式で棺をみんなで抱えて一度近くの川を
渡るってのもあるっていう。三途の川ってことみたいだけど
秀吉が遊芸民・漂泊民の出だったという説はどこまで信憑性があるのか
572 日曜8時の名無しさん 2021/02/10(水) 14:21:51 ID:olDzbNST
>>566
自分は親の出自(とくに父)が明確でないうえ
右耳の穴のとなりに針穴のような小さな穴が開いてるんです
母から聞いた話ですがこの穴は産婆さんによると蛇の穴といってサンカの印だと
いうことなんです
大人になって気になりサンカ関係の書籍をあさってみました
サンカの幻想は元朝日新聞記者の三角という人がエログロを主題として創作に近いもので
沖浦氏によると飢饉などで生活に困窮したさまざまな階層の人が流民かしたものが
漂白民であったり遊芸民であると定義づけています
一方でネットワークの存在する河の民や大道芸人や傀儡子そして修験道者などの研究もあり
何をもって漂白民とか遊芸民とするのかがまず難しいのですね
実はこの人、研究者と言うよりサンカ小説というジャンルを生んだ作家だった
刺激的な創作で有名になってしまったため、まじめな研究はむしろ廃れた
被差別民への偏見が絡むデリケートな問題もあった
山に棲む謎多き流浪の民は本当に居たかもしれないけど
結局その実態は、歴史の闇と虚実の狭間に消えてしまった
実は子供の頃に、近所の山奥の河原に浮浪者みたいな夫婦が住みついて、近所の友達とそいつらの小屋に花火打ち込んだりしてからかいに行ったら、小屋から長い刀を腰に指した浮浪者が飛び出してきて、我々が打ち込んだロケット花火を抜き打ちで斬り落とした
怖くなって逃げてそれっきりだが未だに気になる
場所は大分県の大分市戸次って所から少し山に入ったあたり
そんなロマンのある山の民なんかいなかったのかも
>>25
それにしても刀振り回すのは怖いね
>>26
人が住んでる小屋にロケット花火を打ち込む方が恐いわ
サンカの人達が忍術を伝える人達と
ルーツが重なる部分もあるかも知れないという説は何かで読んだことがあるな
俺の経験だけど、若い頃に色々あって東京から大分の山間部へ入り浮浪者生活始めたんだがやぶ蚊に堪えられず1ヶ月で山を降りた
日本は山がちだからジプシーみたいな連中がいたとして、山道を移動することが多かっただけかも
津軽や鹿児島ではなかったのに
今だって曾祖父世代の言葉は方言キツくてわからないのに
今のように気軽に地元を出なかった各所の人達の言葉がわかるのかなあ
流浪して物売りするなら言葉がわからないと難しいような
富山の薬売りは江戸時代に全国を売り歩いた
物売りなら外国人にもできるからなんとかなったのでは
>>36
乙
サンカと呼ばれてましたと自己紹介する人が本当に居たんだね
長すぎると言われたので分割します
—
237 こぴっぺ 2001/06/22(金) 17:32
これでしょ?
最後のサンカに会った ロマンに潜む虚像の怖さ
池田知隆(大阪社会部編集委員)
——————————————————————————–
独特の川魚漁を見せる最後のサンカ=広島県で
◇差別された窮民の子孫
「私たちはサンカ(山窩)と呼ばれていました」。広島県東部に住む男たちが、
目前で語り出した。サンカとは、かつて日本列島で箕(み)作りや竹細工、川魚
漁などを生業とした漂泊民のこと。1950年代末に消えた。虹のような幻の民
としてロマンチックに語られてきたが、実像は被差別民だ。より学問的に解明し
ようと桃山学院大学名誉教授(比較文化論)、沖浦和光さんがこの5月、部落解
放同盟の人たちの案内で聞き取り調査をした。それに同行し、最後のサンカと言
われる人たちから生の声を聞いた。「3歳のとき、父が亡くなり、隣のおじさん
と10歳のころまで川魚漁をして回った。とにかく魚を食べられるのがうれしく
て……」。尾道市に住む公務員、Aさん(59)は懐かしそうに語り出した。両
親は、大正時代に被差別部落内にできた「融和」住宅に入って定住。「地区内で
も『山のもん』とか『サンカホイト』と差別された。中学のころから、何をして
いいのか分からなくて、暴れていましたよ」 サンカといえば、三角寛(190
3~71)の名を思い出す古老は少なくない。
グロ時代に猟奇的なサンカ小説を書きまくった人気大衆小説家だ。昭和の初めに
現れた説教強盗を、その犯行の特異さから「サンカの仕業」と考えた警察の見方
にのって「伝奇ロマン」ものや荒唐無稽(むけい)な物語を生み出した。戦後、
三角は約30年にわたる研究成果をまとめた「サンカ社会の研究」で文学博士を
取得したが、学問的に信頼できないとして柳田国男などの民俗学者からは無視さ
れた。沖浦教授も「三角のサンカ像は奔放な想像力の所産であり、虚構の部分が
少なくない」と指摘する。だが、一方でサンカのイメージはよりロマンチックに
なる。私がサンカの世界を知ったのは「戒厳令の夜」「風の王国」など五木寛之
の作品からだ。国家の規制を超えて独自の文化をもち、管理社会の下で閉塞(へ
いそく)した状況に風穴を開ける集団として登場し、痛快だった。中島貞夫監督
の映画「瀬降り物語」(85年)では、山々を流浪する孤独な生活を萩原健一が
好演した。作家の椋鳩十は、自然に生きる漂泊民として詩情豊かに描き、自由に
生きる人間の原風景を呼び起こした。昨年末から刊行されている「三角寛サンカ
選集」(全7巻)が今、予想以上に版を重ねている。版元の現代書館編集長、村
井三夫さんは「もう読めないとあきらめていたが、よく出してくれたと喜ぶ高齢
者が多かった」と語る。社会の窒息感が昭和初期のころと似てきているのだろう
か。
国(広島県)の庄屋文書(1855年)とみられる。三角がサンカ発生の地とし
て「雲伯石の三国」(島根・鳥取両県)を示唆しているが、「それに広島県を加
えれば、その指摘は当たっている」と沖浦教授は語る。ただ、サンカが古代国家
成立前の山人という説に対して、「近世末期発生説」を提起した。当時の度重な
る大飢饉(ききん)で農山村が荒廃し、餓死を逃れて山へ入った窮民が山間川辺
を漂泊する流民となった。サンカは漢字では「山家」「山窩」という字があてら
れるが、「山にひそむ盗賊」の意味だそうだ。文明社会から置き去りにされた漂
泊民をあたかも犯罪者集団と見た名残がある。そのサンカは明治初期から次第に
被差別部落や都市部のスラム街に溶け込んでいったというのである。
るから、と私を残して両親はあちこち仕事に出かけ、寂しかった」とサンカの古
老、Bさん(83)は話した。聞き取り調査の後、Aさんたちが川で代々伝わる
「はえなわ」の仕掛けを教えてくれた。「車や冷蔵庫がなかったころ、山間地の
人々にとって川魚は貴重なたんぱく源。農家でよく米などに換えてもらいました。
この川魚漁は私たちの生活文化として子供たちにも伝えたいですね」。そのにこ
やかな表情には、差別に屈せず生きてきたサンカの人たちのたくましさが息づい
ていた。漂泊へのあこがれと、隠された差別の実態。サンカの人たちの話を聞き
ながら、ロマンに彩られた虚像の怖さを改めて思い知らされた。
(毎日新聞2001年6月22日東京朝刊から)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/min/988420242/237
山に住んで生業が竹細工だったりした人たちや犯罪者集団として山窩呼ばわりされてた人たちはいたんだろうけど
大和朝廷に追われたまつろわぬ民の成れの果てならロマンチックだけどな
そんなおとぎ話みたいなことはないだろう
冷静に考えれば竹細工とか川漁師とかそう特別なもんじゃないな
夏目漱石は米はイネになるって知らなかったそうだけど
都市部だけで育った人からすれば農村に当たり前に存在する竹細工とか川で魚取ったりする光景も
見たことない珍しいものと特別な感じでとらえてしまったのかもしれない
映画「山かげに生きる人たち」 昭和36年
https://youtu.be/MaPmKG9KHcc
ドキュメンタリーではなく映画ですが当時の炭焼きの人たちの生活が見られます
珍しくないがプロから買う意味はあったのだろう
あるいはお情けで流れ者から買ってあげたみたいなことも多かったかも
戦後でも昭和の終わり頃まで行商人というのがいて香具師もそうだけれど
ニーズより人情に訴える商売というところがあった
サンカと呼ばれた人々はやはりジプシー的な独自性があったりして
文化の違いが感じられて珍しかったのではないかな
竹カゴとかどこでも使われたろうが、誰でも作れるわけじゃない
でも需要が頻繁に発生しないから小さい村では売る店もなかったのでは?
そしたらサンカが来たとき買っておこうという事になる
あと>>46でも書いたけど、昔はニーズより人情に訴える行商スタイルがあった
貧しい身なりの物売りは同情を引く
サンカの商売もそれで成り立っていたかもしれない
https://sawyer.exblog.jp/amp/12118362/
50年前まで『山窩(サンカ)』とかいう独自の言語を使って山を渡り歩く謎の民族が日本に居たらしい これ半分ケンモジだろ [959542443]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1634876232/
https://nanmoda.jp/2017/11/1256/
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-23.html
https://plaza.rakuten.co.jp/phoenix3/diary/201503020000/
サンカの生活実態
https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12679137759.html
愛知県の人間だけど現在は岡崎市豊田市に取り込まれた町村部には結構そういう人たちいたよ
高速道路や宅地、工業団地等開発のため居場所失ってったんだけど、消防署員とかになって土地売って悠々自適って人多いかな?
最後の世代がいま80手前くらいじゃないの?
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http://www.kumanolife.com/History/sankamoji.html
ヲシデ文字 秀真文字
https://yamatohime.info/kamiyomoji/
https://ameblo.jp/sankalab/entry-11910474121.html?frm=theme
その辺りは、添田知道『テキヤ(香具師)の生活』、雄山閣出版
を読まれると詳しく分かるかもしれません?
色々間違ってたらゴメンね
漂泊の民・山窩<サンカ>に会ったことある?
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/out/1077625078/
山窩、蝦夷(エミシ)、隼人は同一民族ではないか?
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/min/1125391365/
サンカについて語ろう
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/occult/1157719949/
サンカについて語ろう
https://academy4.5ch.net/test/read.cgi/min/1146589556/
サンカ民族の謎
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1136471920/
サンカ民族の謎
https://academy4.5ch.net/test/read.cgi/history/1136471920/
50年前まで『山窩(サンカ)』とかいう独自の言語を使って山を渡り歩く謎の民族が日本に居たらしい これ半分ケンモジだろ [959542443]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1634876232/
山窩だそうです
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/min/988420242
サンカと八咫烏(やたがらす)の関係
https://ameblo.jp/omw2610022/entry-11625534655.html
【山の民】サンカ民族にまつわるミステリー @ [日本史板]
http://science-2ch.net/a/15352
読書日記 ●疑 史(第35回) アヤタチとサンカ(1)
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-572.html
https://plaza.rakuten.co.jp/Phoenix3/004015/
https://tmp4.5ch.net/test/read.cgi/rights/1093420355/
【家船】水上生活民【モーケン族】
https://yomogi.5ch.net/test/read.cgi/min/1327100191/
神社の起源
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/min/1287641496/
「イタカ及びサンカ」
https://w.atwiki.jp/yanagita_dokusyo/pages/8.html
鬼の正体
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/min/1604039218/l50
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/1240233082/
山窩、蝦夷(エミシ)、隼人は同一民族ではないか?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/1125391365/
漂泊の民・山窩<サンカ>に会ったことある?
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/out/1077625078/
○●○●○ サンカ 山窩 山家 山稼 ○●○●○
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/1242549286/
日本史におけるサンカの重要性
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1218782854/
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/1125391365/
漂泊の民・山窩<サンカ>に会ったことある?
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/out/1077625078/
○●○●○ サンカ 山窩 山家 山稼 ○●○●○
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/1242549286/
もしかしたらその辺りで
習合分布図が重なり合うかも知れませんな?
たしか大分県には文献に良く出てくるサンカの小刀とか残ってるはず
ナイフの雑誌では評判悪かったみたいだけど
普通に山菜取りに使う両刃の小刀じゃないの?
嘘や間違いが多いってのはよく言われてる事だし
筒井功さんの『サンカの真実 三角寛の虚構』
みたいにそこを調査した本もあるけど
最近は、飯尾恭之さんから
サンカの子孫の型が三角さんと会った話や
三角さんからもらった原稿(なぜか表題が三角さんの筆跡で内容は他の人の筆跡)を
持っていたのが見つかったと報告があったり
沖浦和光さんがよく著作に書かかれた「三角さん得意の作り話」という
姿勢への疑問も出て来ているし
三角さんが調査して取り上げたサンカの方々を
利田敏さんが再発見して嘘ではなかったと証明して見せたり
三角さんの調査記録も再評価はされてはいるみたいですね?
この辺りは「歴史民俗学研究会」の会誌や
批評社の サンカ学叢書 というシリーズに
詳しいようですので、興味ある方はお読みになられれば如何でしょう?
それでも何も解らないのがサンカなのかも知れませんが
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山に棲むもので竹細工や狩猟を生活の糧として生きていた(る)人って当たり前のようにたくさんいたよね
ってネットで発言したら
なんか必死になってそれを否定する輩が沸いてきて
何で?って疑問に思うのと同時に「あぁ」って察するものがあったね。
触れてはいけない何か?
当たり前として接することがはばかられるような存在として、こちら側からも向こう側からも「明確に」不可侵なモノ。
関東東北なんかだとそういう意識本当に低いというか弱いけど、察したわ。
下手に刺激出来ない?怖いね。
そんな怖がるようなことではなく、サンカといえば被差別扱いにもになってるから
ピリピリするのもいるってだけじゃないの?
そうしたことを深刻に受け止めないのは自分も東日本の人間だからかもしれないけど
過去スレ見て見たら明らかだしな
>>84の理屈で荒らされてるスレが実に多い
角のついた鹿の毛皮を被って、肉を入れた箱を首からかけて
確か丹波から来てたとか書いてあったかいたか
丹波なんて日本の分水界では一番標高が低くて、古くから開けてた場所なのに、そんなところにもいたか
この時代に? とも思うよな?
ところで、関東東北の方は
そういう意識が低いというか弱いのかな?
逆に不可侵意識が強い地方って何処ら辺だと思う?
>昔、大分県で刀指してるサンカ見たんだがなんだったんだろう?
詳しく!
昭和58年頃だけど、大分市の戸次近くの河原に夫婦のルンペンが小屋掛けをしてて、その小屋に地元の子供たちでロケット花火を撃ち込んで遊んでたら、浴衣みたいなのを着たルンペンが居合術に使うような長い刀(鞘は黒で柄はかなり使い込まれてる感じの)を腰に指して低い姿勢で飛び出してきてロケット花火を抜き打ちにしてパッと鞘に納めたのを見た。
その夫婦は夏が終わった頃に何処かへ行ってしまった。
?
>>93
昔の事ではあってもやっちゃいけないことだけど
それでも
貴重な証言を有難う御座います!
個人的には、サンカに伝わった武術の研究をしているので
興味があります
実際に、打ち込まれたロケット花火を走りながらの
抜き打ちで切り払えるとしたら相当な腕前ではありますね
なかなか出来るものではありません
居合というのは基本、武士か公家を中心に伝播した技術だと考えられますので
サンカ民族?に居合いという文化があったかどうかは分かりませんが
ラッパやスッパという職業?的な所で忍術のルーツとしての
体術や格闘術はあったのだろうと思ってますので興味深い証言だと思います
>サンカに伝わった武術
そう言えばそんな小説があったね
刀剣の技術として抜き打ち(抜いたままに斬りつける)は割と普遍的で
わざわざ「居合」を云々する必要もないと思う
何か「居合」「抜刀術」を普通の剣術流派と異なる特別のもので
普通の流派は「抜いてからだけ」とイメージしてるむきが多いように思うことも多いが
多くの剣術流派はその体系に抜刀術(もしくは居合)を内包してる
もしくはその逆(居合を主体として他の技法を併せ持つ)
一例を挙げれば「子連れ狼」で有名な「水鴎流」は実在の「居合」流派だが
(漫画のそれは概ね創作で一部の技法名等を借用している)
曰く、薙刀や組み打ち術などを併せ持つ総合武術とされる
しかしこれについては元々は普通の剣術であったものに後から居合を取り込んだとする研究もあって定まらない
基本、大分市の戸次川は
古戦場跡で、武将・長曽我信親の墓もあるぐらいだから
その辺りの地域での古流武術の伝承が残っていれば
何かの技術の流通や交換、伝承などの手掛かりになる何かがあるかも知れませんね
とにもかくにも貴重な情報提供に感謝いたします
大分から別府にかけての海沿いの急な崖地に小さな家が密集してたりするけどあれも気になる
家船も多かっただろう
埼玉群馬栃木(あるいは福島も)で松島さん=被差別って図式もあるからたまたまなのかそれともつながっているのか・・・
しかも鳥海弥三郎安部宗任の子孫を自称しているみたいだし
鳥海弥三郎、つまり安倍宗任とかいわゆる蝦夷
まあ武士が世の中を嫌になったり精神的疾患等で山に入ってサンカになったのかもね
上州の国定忠治一党や下総の勢力富五郎みたいなヤクザも追われて山に入ったから、そういう渡世人でもあったかもね
狩猟採取民族的な性格を持っていたアイヌ民族も一定の集落を形成しているのに
つい最近まで定住地を持たないキャンプ生活のような流浪民族がすぐ近くに居たとは考えにくい
後半で一例を挙げた内容が前半の書き込みと矛盾するのでどう読めば良いのか・・・?
別に古流剣術流派の何処もかしこもが
居合を含む訳ではないと思うが?
むしろそういう流派は少ないかと
ある藩内で総合武芸として学習されていた流派なら
剣術に居合いや柔術、馬術弓術などを含んでいても不思議はないが
剣術から見て居合はかなり特殊ですよ?
居合には居合いの特殊な技術や思想があるので
剣術とは別体系だし使用される状況もまた別ではないかと?
そんな本格的じゃなくても素人は感心させられるだろう
落ちぶれた浪人も大勢いた事だろう
そこでは川魚料理にヨモギそばとか主流じゃなかったっけ?
主に、箕作や竹製品の修理、川魚の採集などを行う人を常民(百姓)がサンカと呼んだ。
竹製品や川魚は常民に売って生計を立てるので、生活圏は深山幽谷などではない。
2022年8月現在、私の住む街にはサンカの末裔が暮らしている。
地域の人は、みんなそのことを知っているが、特別、問題になどしない。
彼らはサラリーマンだったり、お店を経営していたりと、ごく普通に暮らしている。
そういう独特の文化を伝え残している人達はいないのかな?
ルンペン、浮浪者は人のいる町中でゴミ漁りしたり小銭を恵んで貰ったりして生きてる
サンカはコミュニティを作ってに山に隠れ住み、竹細工や川魚等を売りに里に来たとされる
農家の人に聞いたら“サンカの爺さん”と呼ばれてて昔はリンゴ畑のある山の真ん中で野鍛冶して農具の修理してたらしい
呆けてときどき昔の仕事場に出かけて来るって話だった
>でも山奥に住んだら商売にならないよ。
高速で移動する人達だから関係ないのでは??
まず生活圏を変え、次に職種を変える。これをトケコミと言う。
>>136
高速で移動って小説には書いてあったね。健脚だとは思うけど山と里の間で生きた人々だからね…。
里の人間との交易の場所だったのかな。それこそ細工の工程を見せて即売をして
村落のごく近傍でやる箕作り箕直し竹細工野鍛冶。市中なら川魚売りや下駄の歯入れ。
手に技術のある者は(竹細工、川魚漁、金属加工)職能集団として、
そうでない者は(薬売り、門づけ、経文師、行商人)として全国を回った。
その行動範囲はそれぞれで、自宅があっても、四国から関東まで通っていた例もある。
山奥に住み独自の風習と伝統を持つ人々は今もいるが、それとサンカとは違う。
家船の末裔も防予海峡の島々には残っているが、今は普通の現代人である。
サンカとは、職種をさす言葉であって、決して民族をさす言葉ではない。
兵庫県丹波地方は、サンカ小説では本拠地として有名だが、作家のフィクションである。
大分県竹田市にはサンカ(竹細工師)がいて活躍したことを調べた論文がある。
また別府市には大分県立竹工芸訓練センターまであり、移動型竹細工師の活躍がしのばれる。
内容は個人的に調べたこと?
なにかの書籍や資料の抜粋かまとめ?
サンカ関係の文献は多数あり、図書館めぐりをすれば読めますよ。
でも、もっといいのは、貴方のお爺さんやお婆さんに聞くことです。
みんな常識人なので、差別にまつわる事はなかなか話してくれません。
でも孫なら・・。大分県の図書館にはサンカ関連の論文がありますよ。
私は、サンカの末裔から話を聞きましたが、サンカは西日本一帯にい
らしたから、地域ごとに習俗が違うことは理解してね。
根拠は? で、サンカでなければ何?
>サンカとは、職種をさす言葉であって、決して民族をさす言葉ではない。
この一行は最初の文言に矛盾しないか?
>偏見や差別を受けずに生きるには、生まれ故郷を離れるのが最も簡単である。
>手に技術のある者は(竹細工、川魚漁、金属加工)職能集団として、
>そうでない者は(薬売り、門づけ、経文師、行商人)として全国を回った。
偏見や差別を離れるのにもっとも簡単な方法は職替えでは?
矢田半官
羽客
・・・何かサンカを連想しないか?
例えば行商人として山から離れ町から町を巡っても悪くはない
例えば薬売りがそうだけどみんながみんなサンカでもなかったみたいだし?
田舎から都会へ仕事を求めて出て来る人は昔からいた訳だし?
で、山奥に住み独自の風習と伝統を持つ人々がサンカでなければ何なのだろう?
大分の山間部(玖珠町・耶馬溪あたり)でハチミツと川魚を売ってる小屋があったんで寄ったらマムシや竹細工の篭とかも売ってたわ
本物のサンカがいたとして末裔が今もそのまま暮らしているのは極めて考えにくい
それっぽい人がいたなら趣味でサンカっぽいことして半隠遁生活してるんだろう
高地集落(山奥)には、そこに住まいする歴史的理由がある。
21世紀の今日でも山を降りない理由に山人の矜持が見える。
山人とサンカの違いについて解説頼む
山に暮らし、山で生計を立てている人を山人と呼ぶことが多いですね。
木地師、猟師、漆採集、炭焼き、樵(きこり)等が分かりやすい例です。
次に歴史的理由から山に住んでいる方も山人と呼ぶことがあります。
源平の落人や、忌部氏の一部、山岳武士、圧政からの逃避者等がその例です。
多くは農業をされています。
サンカが生きるためには常民(平地人)との交流が必要です。なので
仕事の材料確保に里山程度には行ったでしょうが山奥には住みません。
丹波高地だと山国郷や八瀬童子との関連も気になる
しかし政府が徴兵のためもあって戸籍整備をするようになってから
流浪の民みたいなモグリの国民がいることは許されなくなった
出身は三次なんだけどその前は炭焼きとか蓑売ったりして一族で渡り歩いてたらしい
自分達のことワタリとかサンカって言ってたわ
三次って広島?
広島の三次だよ
戦争が終わるちょっと前に三次にきてそのまま一族はそこに定住したらしい
三次は部落多いんだけど部落民とサンカは扱いが別だったらしい
爺さんが言ってたのはうちの一族の他に5つのコミュニティがあったって言ってた
サンカ文字とかサンカに伝わる特殊な道具や言い伝え、宗教などについてに
何か聞いたことはありませんか?
爺さん字書けんよ
学校も戦争も行ってない
山の事は何でも知ってて俺が子供の頃一緒に狩り行ったりした
爺さんは銃とか使わず罠で狩猟するんだけどその辺の木の皮とかつるを編んでそれを使ってやってた
今俺もいい歳になって趣味程度で狩猟するけどワイヤー、バネが無いと絶対無理だって思う
詳しくは教えてもらってないけど婆さんが天皇家の乳母の系譜だったんだけどそれと一緒になったのが原因らしい
あれは使ってるの見たことない
山刀みたいなの使ってたけど全部包丁って呼んでた
誰かが特殊性を持たせたくて言い出したのかも
連綿と狩猟と肉食に関する習俗や祭祀は伝わってるのよね。
古い神社の祭りとか肉の供物や獣の犠牲は普通にあるし。
何でか聞いたら樵の親方が全部用意してくれたらしい
三次って今でも部落あるんだけどサンカだった爺さんたちは部落民とは扱いが違うんだってさ
山神の遣いだって爺さんが言ってた
爺さんの婆様は祈祷みたいな事してたって聞いた
山神の遣いとかカッコいい
サンカといえば非差別民問題と一緒くたになりやすい印象だけど、そちらでは山の神秘的な民として認められていた感じかな
役行者が山で不思議な力を得たように、実際山に住むと感覚が鋭敏になってシャーマン体質っぽくなるのかもしれないね
豪邸に住むサンカとな?
普通の村に定住することになったとき三次では不思議と尊重され、いい待遇だったということだろう
>>207
実際は完全な漂白民というより山の隠れ里みたいなとこで暮らし、魚や竹細工を売りに麓に来たり
季節によって拠点を移したりして生活していたということではないかな
何でか聞いたらそれ山の神の使いで獲るんじゃなく授かるものなんだって言ってた
食べれるのも長男だけで俺も食べたけどあれを超える食べ物に出会った事ない
体自体も大きいイノシシだったのかな?
普通は「産まずの三歳のメス」が一番肉質的にいいと聞くけれど
(もちろん子イノシシだったら豚肉(享年約半年)同様クセもないんだろうけど、小型種の二ホンイノシシだとこの年齢は肉の量が少ない)
こういうものは味というより捕れたことに意味があるのかな?
というか、そもそも日本みたいに雪が降るような気候で「家を持たずに暮らす」って現実的ではない。
縄文時代はやってただろうというかも知れんが、あの時代は人口が少なかった。
江戸時代なんか、ふらふらとどこかに仮小屋でも作ろうもんならすぐに追い出されただろう。
誰もいない山奥はそれこそ雪が積もる。
食い物がない。
自分一人で10年だけとかならあり得るが、家族を作って子孫を作って集団を維持していくだけの
「漂泊できる土地」は残念ながら存在しなかったと思うわ。
うちの地域の山奥の今は廃村になったムラがあるが、
近くの村から分村したらしい。次男や三男が。
だけど、多分100年も持たなかったと思われる。
洞窟おじさんも戦後だから山奥で一人暮らせたんだろうな。まあ当時ですら今よりは寒かったけど
江戸時代だと木地師やマタギとの縄張り争いも避けられないだろうし
今はうち以外途絶えたけど
超能力とかUFOとかUMAの雑誌と
同じにされてもな・・・
>>208
他にも何か思い出せる事があったら書いてください
亡くなったって本家の方に連絡した時になんで絶縁したんか聞いてみたんだけど爺さんが一族で大事にしてた物を博打でスっ無くしたんだってさwww
穀潰しって怒ってたけど俺もキレそうになりながら色々聞いてみたらウメギ?っての無くしたんだってさ
何に使うんか聞いたら他所のもんが知らんでええって電話切られた
亡くなったんかー
すごいタイミングだな
また貴重な歴史の生き証人が一人…
ご冥福をお祈りします
おそらく何らかの事情があって閉鎖的な山の集落で暮らし、川魚等を売ることで普通の村との接点を持った
一方、このスレの初めの方で言われてるように、三角寛という元新聞記者がそれを元に刺激的な創作をした
そのために虚像が独り歩きして、すべてトンデモでは?といわれるようにもなった
その辺の混乱はあるけれど、>>36-39のような記事も残っているのでまるっきり想像の産物でないこともたしかだ
お爺さんがサンカで三次に定住したと言ってる人は、被差別部落とは違う扱いだったと言ってるのが興味深いね
自分は信じるよ
三角寛がサンカ本を書く以前からサンカという言葉はあってもそう呼ばれる人達も居たわけだから一定数は当然存在してたんだろうし
川で魚を採ったり竹細工をして生計を立ててたという事実のみに着眼し神秘性を排除して考えればそう特別な存在でもないのだろう
マタギや木地師に比べて扱うものが庶民向けで単価が安く経済や文化的余裕が持てず
出自に関する伝説や自分達の生活を記録して保存しようとかしなかったから実態が分からなくなっているのが現実なんじゃないか![]()
農文協の日本の食生活全集でも、場所によっては驚くほど淡水魚や山菜の利用が低調な土地もある
北上高地とか
農業生産性が低いけどなぜか天然資源の利用を増やすという方向にはいかなかったんだろうな
こういう土地がサンカの独壇場か。大分の大野川中下流も、暴れ川で淡水魚漁はあまり定住民はしなかったらしい
サンカの山刀とされるもの
山菜掘りのナイフなんかに似てるけど今だと両刃のナイフは所持するだけで法に抵触するから改造して刃を落とすか処分した人も多いんだろうな
実際はすべてが両刃なわけじゃなく各自使いやすい形状だったんだろうけど
と言いたくはなりますよね?
1950年なら意外に昔じゃない
サンカだった人がまだギリギリ生きてるか最近亡くなってるならそんなもんか
軍事の員数に彼らは一切入ってません
治安維持法を犯す基地外狩りに心血を注いでましたけどな
サンカの存在を過剰に神秘的なモノに思い込まない方が良いのと同じで
定住するようになった理由を陰謀論的に考えるよりも単純に学校教育や社会保険制度なんか整備されて
放浪生活するより住民票持って子供を学校に行かせて病気になったら健康保険でちゃんとマトモな医療を受けたほうが良いからくらいに思ったほうが良いんだろうな
国は国民管理してちゃんと税金納めさせたいというのはあるだろうし
漂泊民を自由生活やめさせて定住化させるというのはダムを作るために村人を別の土地に移住させるようなもんでそれなりの軋轢はあっただろうけど
高度経済成長期にサンカが自然消滅してしまったのは社会制度に乗っかって普通に暮らしたほうが楽で便利だったとかその程度な理由なのだろう
現代的な生活は楽で便利だけど、世界の原住民たちは文明と出会ってすぐに生活を変えてきたわけではないよね
どんなに便利になると言われても人はなかなか古い習慣を変えられないものだ
だからサンカが里に降りた理由もやはり山の開発とか戸籍整備、土地の所有権の整理、国民保険や義務教育の徹底…
そうしたものが進んで、徐々に曖昧な存在が許されなくなったのが大きいと思うわ
本人たちが楽をしようとしたというよりやっぱ社会の圧かなあ
サンカを過剰に神秘的に見ることや陰謀論にハマるべきでないのは同意
家屋や農地だとかはともかく山林の所有権だとか河川の漁業権なんかは自由生活者なんかには説明しても理解し難そう
この村の周辺は竹や山菜とか川魚とって売ることはできるけどあっちの村の周辺だと怒られて追い出されるとかそんな感じでの理解だったんだろうか
国家管理すらされてない遊牧民がこの島国日本に存在したという歴史事実に震えを感じます
喰えなくなったら老人や嬰児の間引きとか容赦なくしてそう
これは穿って捻くれた考え方だが、誰かにとってマズイ事実
さすがにそれなりの大学まで行くと講義で教授されますが~
登校拒否寸前まで行きましたが人間関係の観察と養成には学校は悪くない
国立大学まできちんと終了して大手企業に就職しました
こういう予定調和な流れに幼少期より違和感あるんだ
酸化還元反応じゃねーけど、「サンカ」みたいな自由な人に憧れます
ゼニカネから最も遠い世界で人生を謳歌したいけど柵だらけ
おれも憧れがあって、たまに短期間限定でサンカやってるよ
キャンプとかじゃなくて狩猟もすれば物乞いもする
ナチスも絶滅作戦をしてるし
サンカ、当時の大日本帝国政府にとって、どーでも良かった
トラブル回避は大事だから
だがやがて国のルールを全て受け入れるしかなくなったのだろう
そういう方針自体は奈良時代の律令体制以降ずっとあったわけで
サンカが消滅したのは高度経済成長期以降の社会では小規模な竹細工や川魚漁だけでは生活が成り立たなくなったという当人達にとって現実的な問題も大きいんじゃないか
たまたまサンカは民俗学の研究であったり三角寛の創作よってサブカルチャーの関心の対象になったけど
実際は川漁師とか鋳掛屋とか田舎鍛冶
とかサンカの生業と重なる職種の人達も観光や民芸として少数生き残るだけで産業としてはほぼ壊滅したわけだし
第二次大戦後は広大なブナ林がスギヒノキの人工林に置き換わって水源の山が瘦せて、ダムもできて、大量消費社会で水も汚れて、川の恵みはめっきり減った
江戸から明治への変化もツルやコウノトリやトキの絶滅に近い減少を招いたけど、もともとサンカの獲物になるようなものではなかっただろうし
それも含めて世の中の流れには逆らえなかった
霞が関ももう面倒見切れず、地方は役所周辺数キロ圏内を除いて放置プレイで自然回帰w福島原発周辺が先行例。
一方、これまでのような安い海外製品の輸入も激減、だからって国内量産復活も人手不足等でままならず・・。
ほとんど崩壊した日本の近現代制度下を離れ、金持ちは海外移住。米中大戦で向こうもどうなるやら分からんが。
貧乏人は田舎で自給自足・物々交換生活に転ずる者も出て来るであろう。戦渦を逃れて新サンカ復活あるよ。
いずれも新がつく
そしてその中からまた定住民に冠する支配者が出てきたり、定住民も強いリーダーの下反撃したり
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リヤカーにジャンクの農機具やトラクターのパーツなんかを軽トラに満載して旅をしながら各地でし修理をして周ったり
昆虫食を作って貴重なタンパク源として農産物と物々交換したり売り歩いたりとかそういう内容になるのかね
就学年齢の子供が居るような場合だと数ヶ月単位で住民票移したりとかしてるそうだし
サンカも竹細工売るような商売が成り立つなら組合だとか会社とか作って集団が現代化はしながら移動生活を送ってたんじゃないか
流石にテンバ作って野宿とかはしないだろうけど
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北信越地方山の頂上ある隔絶された部落生まれ。
冬に生まれたらしいが6月生まれとなっている。当時役所のある里へは雪の為に6月まで降りれなかったから。
今と違って届け出の日が出生日だったとか。
小学校入学でもかなり成長度合いが違ったらしい。
どう見ても2・3歳は違う1年生もいたと言う事です。
冬は一体どうやって生活していたのでしょうね。
今は舗装こそされていますが谷底を見ながら車のすれ違いも困難な道しかありません。
最も拡幅も不可能ですが。ずっと昔に小学校も閉鎖され今でも数世帯はあるのかと思います。
姓はほぼ皆同じで2?しか無いそうです。
当然?の様に平家の落ち武者伝説と聞かされました。ただ父親からでは無く死後兄弟からです。
里に降りてから結婚し再婚もありますが、母親の違う兄姉は体格が大きく170・180オーバーで
顔の彫りも深くカザフスタン人の様な容貌です。私と妹は170・160骨格は太いと思いますが顔つきは普通の日本人といったところです。
それぞれの母親の遺伝子の影響もあるでしょうが。
谷底ギリギリの
幼いころ親戚が剥いたウサギを良く持ってきてくれました。
汁にするのですが鶏肉みたいなものですね。
山奥なので犬猫はいなかったそうです。母親は犬猫食べたそうです。
犬は旨いけど猫は灰汁が凄くてまずかったらしいです。
落ち武者伝説はあったようですが 何故あんなところに部落があって住んでいたのか
不思議でなりません。ただ何か気が引けてそれ以上兄弟に聞いたことはありません。
被差別部落の扱いは無いのでかなりの期間住み着いていたのだと思います。
縄文人?の末裔のような。死ぬ前に調べておきたいとは思っています。
山のほぼ頂上の部落なので、少し歩くと峠から反対側の平野(盆地)が一面に見えます。
向かい側の山の標高が一緒位で恐らく狼煙でもあげてたのではないかと
ただそこにも部落があったのかは分かりません。
市街地から部落までの道に沿って川が流れています。
峠付近には小さな田んぼが段々に作られていたので湧き水が出ているようです。
その川の水源なのかと。
定年退職となったので 少しづつ調べ又現地も訪れようかと思っていますが
親族は無く(苗字はほぼ全世帯同じなのですが)聞き取りには勇気がいります。
畑作と大きな池で鯉を育てて定期的に業者が取りに来ていたようです。
幼少の頃は良く遊びにいったのですが
市街地まで子供の足で1時間もかかるような部落でした。
家はその地方の造りらしく土間から上がると板の間に囲炉裏があって
天井から吊るした鍋で煮炊きもしていました。
土間には様々な農耕具が残されていて以前は稲作も行っていた痕跡もありました。
2階には稲わらで筵を作っていたという作業場もありましたから。
そこの子達は蜂の巣を取ってきて中の幼虫を生きたまま美味しそうに食べていて
勧められましたがとても無理でした。蝗煮は美味しかったですが。
そこも被差別部落では無かったようです。
犬殺しだとか番田だとかの話をしているくらいだったので。
野鴨や兎、近くの川で採れるかじか?川蟹?が特別なご馳走でした。
それ以外は野菜山菜類しか食べた記憶があまりありません。
何故に住み着いていたのか不思議でなりません。
そういった部落は山菜や干し魚、獣肉毛皮など(竹林は見当たらなかったので)
で春から秋まで里へ下り各地で交易しなければならなかったはずです。
そんな人々も後にサンカと呼ばれたのと思います。
いつかの新聞記事に載ってたサンカのことじゃないかと後から呼ばれるようになったのでしょう
もともと全国的にサンカって言葉があったわけじゃなく
一部の地域で使われてた言葉が警察用語や報道で使われるようになって
それっぽい生活をしてる人たちを大きくまとめてサンカって一括りにしたのが実態なんだろうな
サンカ自らが我々はサンカであるって主張したり自覚してきたわけでなく
大半のサンカは気づいたら社会からそう呼ばれるようになってたったのだろう
大地主の私有地を歩いていけば山陰から京都まで行けるとも言われる。今はわからないが。
本拠地には封建主義が今でも多少残る。
1950年までには農地解放があり、山の住人が土地を得、住民登録法で住民になった?
栃餅の製法も各地に伝わる
一方水田の魚メダカの方言名は異常に多い
サンカがいたかどうかはともかく、山の住民は尾根伝いか少なくとも中央分水界を越えるくらいのネットワークは持ってたってことか
生まれた村から一度も出たことがない、というのはあくまで低地の稲作中心の農村の話なんだろうな
いろんな情報がありすぎて分かりづらい、どれも正解で間違っていないのかな
窃盗や人身売買をしていたのはサンカじゃなくてサンゾクというやつでは?
山に潜んでる胡散臭そうなのを何でもサンカとしてひと括りにするのは無理がある
いつの世もどの世界も色んな人間が居るので
山の民もマジメに竹細工や川漁師なんかを地道にやって山麓の町や村から重宝される人もいれば
山賊やって追い剥ぎや人攫いして町や村に降りて盗みを働く奴も居るだろう
https://tocana.jp/2023/09/post_256222_entry.html
サンカとは、山で非定住の生活をしていたとされる人々を指す呼び名である。その発生の由来や文化に及ぼした影響などについては多くの謎が残っており、民俗学でも重要なテーマとして扱われている。のちに里へ定住化が進んだ末に、昭和30~40年代ごろにはほぼ消滅したとされている。
山の民とも呼ばれるサンカについては、その発生時期も諸説紛々としている。江戸時代に税収の取り立てから逃散した農民という説もあれば、戦国時代のスパイ集団「乱破(ラッパ)」「素破(スッパ)」にその関係性をみなす説、古代末期から中世を通じて京都や奈良を中心とした街道の坂道に集住していた坂者(さかのもの)を由来とする説、より遡ると農耕文化を主軸とした渡来の弥生人に追いやられた縄文人ではないかとする説がある。
サンカは、主に竹細工を売ったり農具を修理したりして生計を立てていたと言われているが、忍者やゲリラ戦の傭兵として雇われていたのではないかという意見もある。彼らは、肉食の忌避やタブーであった文化的事情から離れており肉を常食していたということから、男性は背格好も大きく女性は美人も多かったと言われている。また、並外れた運動能力を持っており、それが忍者や傭兵の活動にもつながったのではないかと考えられている。
サンカは文字を持たなかったとされる一方で、独自のサンカ言葉を持っていたという。「バラす」「ホシ」「メボシ」といった犯罪・警察関係の隠語は、盗賊となった一部サンカが使用していたことに由来するとも言われている。またサンカ言葉と能や狂言の世界の隠語が似ているという指摘もあり、これはサンカの一部に芸能をもって投げ銭を得る者もいたことから、影響があったのではないかとも考えられている。
作家の山口敏太郎は、サンカのルーツは海を渡って移動した漂白漁民「家船(えぶね)」にあり、彼らが太平洋を渡りそして川を登って山に入り住み着いたことで、サンカが形成されたのではないかと説いている。
サンカは、ファンタジー色の強いものとして描かれることが多い。しかし、表立った“正史”ではなく、その背後に影を潜め語られずにいる部分にこそ歴史をつなぐカギがあり、サンカこそがその重要な存在となっていることは疑いの余地もない
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/c/rights/1685094321/
10世紀後半〜11世紀頃にサンカの最高位だったとされるアヤタチミチムネ(乱裁道宗)は藤原道隆の隠し子だと言われています。
その頃のサンカは13歳になった男子を2年間、丹波に修行に行かせたと言います。なぜ丹波かと云うとミチムネの本拠地だからです。
修行内容は、武術はもちろんのこと、隠れ身の術や攻めの術・攻め手を防ぐ術・投げての術・暗中を行く術・秘密連絡術などの忍術が含まれていました。
サンカのネットワークを2年間でガッツリ構成出来るシステムがこの頃にあったことがわかります。このネットワークを後に隠密族(シノガラ)と言い、サンカは政財界や右翼組織に流れ込み戦後の混乱の中で力を蓄えたとされています。
マタギは夏の間は村で耕作している農民だぞ
狩猟はあくまで冬の副業
住み分けというか山の民みたいな人達も仕事によって住む場所というのは異なるのでそれぞれ木地師とかサンカとか別々の集団として存在してるのではないか
ヒエラルキーみたいなものがあったとしたらサンカはどちらかというと生活基盤が脆弱で弱い立場だったろうから良い場所なんかはとれなかっただろうとは思うけど
学問的な分類では木地師とサンカは別物だろうけど
別府の竹細工なんかは木地師が始めたという伝承だし
実際は中間的な存在とかはたくさん居たんじゃないの
サンカという呼び方自体が警察や役所や民俗学者が特定の集団を分類するためそう読んだだけで
実際に我々はサンカであると自認自称してた人達がどれだけ居たかという問題もあるだろうし
カツカツの生業やってた人たちにすぎない。
それな。やり過ぎだと思うわ
一方で外国から革命を進めようとした連中がいて、
かたや物書きになって日本民族の深層に潜って書かれてない歴史から社会をひっくり返す論理を見つけようとする連中もいて、
後者がサンカとか古史古伝とかアイヌなんかに目をつけた。
大正・昭和初期の官報だとなぜこんなところに?というような辺鄙な場所で見つかった行旅死亡人の記事があったりするんだろうか
それとも自分たちで埋葬なり火葬なりして、遺体を死んだ場所にそのまま置き去りとかはしないか
昔は山に土葬とか普通だったみたいだからなあ
遺体は火葬して霊園に納骨…みたいな発想は最近のものだろう
今も田舎では裏山などに先祖の墓があったりする
サンカは流浪とは言っても拠点から拠点に渡り歩いていたと思う
死者は拠点の近くに埋葬したのでは
https://www.library.pref.gifu.lg.jp/gifuken-mokuji/gujyo/minami_tusi2.htm
(1)ノアイ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・734
(1)本村のノアイ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・734
(2)ノアイ小屋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・736
(2)サンカ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・737
(1)サンカについて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・737
(2)サンカの住居・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・739
(3)テンジン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・739
(4)ハタムラ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・740
(5)セブリサンカと居附サンカ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・740
(6)トケコミ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・741
(7)生業・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・741
(8)セブリ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・743
(9)シノガラ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・744
(10)サンカ社会の解体・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・744
この部分か
そのへんの成書を引き写しただけの記事じゃないかと思う
そしてそそくさと移動?土砂崩れが起きたら集団単位で全滅しそうだけど
まともな家を持たない小規模の集団だと自然災害による大被害もないと言えるからね
最悪みんなで埋まっても気づかれない
>>353
今なら山の神に助けられて渡り歩いていたとかの設定で
スピリチュアル系サンカ小説が作れるかもしれないな
捏造と書き換えで系図を源氏にしてるけど
南北朝時代末期に劣勢となって平野部奪われて山間地に追いやられた南朝方が山の民と結びついて誕生した土豪の代表例が松平とかだったんじゃないの
徳川の祖先である松平親氏が新田源氏の後裔というのは誇張だろうけど
三遠信の山間部は宗良親王の本拠地だったから奥三河の入り口の松平郷にそうした落人が流れ着くのはそう特別な事でもないだろう
近いうちに調べてみたいとは思っている
若い頃に流れ者の僧だとか行商やってたりとか旅芸人の
一座に居たりとかで
漂泊民とか古い言い方だと賎民みたいな層だけど民俗学的な意味でのサンカではないよな
元サンカの老人なんかがあの有名な芸能人はサンカ出身だみたいな話を残してたりするけど
単に旅芸人の一座で修行してただけで昭和の頃までは存在した漂泊民の社会で子供同士の交流があっただけのようにも思えるし
元サンカの人たち自身がどんな生活をしてる存在がサンカであるとかそういう自覚はあんまりなくて
社会からその人たちがサンカと呼ばれて漂泊民全体を自分と同じサンカであると認識してるケースも多々あるのではないかと思う
https://www.nhk.jp/p/ts/GZZPYKZMWX/
民族の十字路な上に民族意識が四分五裂しやすい土地柄だからなのかもしれないけど、一応こんな例もある
歴史から抹消するための後付けのストーリーだと思ってる
実際には明治維新以降極端な形で発達した貨幣経済や近代化の対局にある
戸籍や定住や学歴などに縛られない一大勢力だったと面白がってみる
突如として現れ土建業界を屋台骨に日本の黄金期を作った田中角栄
土建業界はシノガラで成り立ってるらしい
なかったことになってるけど八咫烏を操り
日本の歴史を諜報活動で動かした勢力
実際に大物政治家にも数多くトケコミしてると言う
戸籍で把握されなければ表に出ることもなく
強固なネットワークで暗躍することも出来るだろうし
山奥で大麻栽培でもしながら暮らしてるんじゃないかと推測
拝金主義も近代化も色褪せてきて
山窩の生き方がやたらと魅力的に見える
宮澤喜一の実家なんかは戦後まで電気も来なかったらような山奥でサンカみたいな暮らしをしてたって言うな
野中広務なんかは本人自ら被差別部落出身を自認してたし
現代でも橋下徹とかがそうだけど
明治以降の社会って政治家なんかが目指すというのは
狭き門ではあっても出身階級に囚われず社会的に成功する方法の一つだったんだろう
河川周辺の土地から攻めてって天下取ったのは
河原者だからみたいな(被差別出身)考察があったけど
どっちにしても何かしら強大なバックがあると思う
あるサイトではセブンシスターズがサンカ出身と認識した上で
角栄を首相に任命したと書かれてた
個人的にBとサンカは全く別物だと思ってる
意図的に差別問題と混同させてなかったことにされてるような
大和族とか明治維新の裏側とかと一緒に
グリコ森永事件もサンカ絡みらしいし
今でも絶大な力を持ってると思うんだよね
下手な資料よりも萌えるエピが書いてあるよね
あとサンカは自らサンカと言わない掟がある上に
戸籍も持たないメンバーが一定数いるわけだから
尻尾を掴ませず暗躍することが可能なんだと思う
忍びを生業にしていたくらいだし
戸籍も持たない権力ネットワークが存在するとか
考えただけでもワクワクする
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/3/2/3_2_59/_article/-char/ja/
1. 序言 綾部市の南境四尾山塊の西麓に位して、比高30mの段丘上に旦寺(綾部市字延小字旦寺)と称する竹細工專業の集落がある。東西約400m南北約250mに過ぎない小地域ではあるが、人文󠄁地理學上特に興味深いものがあると思われるので、次に若干その考察を試みたいと思う。
4. 旦寺部落民と同類の分布概況 云うまでもなく人文󠄁地理學的な考察は、現前に展開されている集落とか部落民の活動状況のみを見て完成せられるべきものではない。先づそこには元來如何なる民族(狹義には氏族)が定住し、如何なる歷史をもつて占居し続けて來たかを考察しなければならぬ。何となれば現在遺されている種々の生活樣式は、之を生み出した民族の文󠄁化內容の傳統的な反映に他ならないからである。
彼等部落民は空󠄁也上人の門流であると自称しており、大正の末頃部落の中心に以前からあつた小祠を改築して立派な空󠄁也堂を建て、京都空󠄁也宗本山(紫雲山光勝寺)の末寺であると考えていた。しかし戰時中この空󠄁也堂は取り毀されて、現在は公会堂を建てその中に上人をおまつりしている。
地方民は最近まで彼等を称して茶筅又は鉢・鉢屋等といつて、一種異樣の感を以て接していたのである。而して此の種の徒は、山陽・山陰両道をはじめ四國・九州・東北等殆ど全󠄁國の各地に存することはよく見聞される所であるが、近く丹波に於ては、兵庫縣氷上郡新井村の山窩(茶筅)は竹細工業を專業とし、同郡大路村字鹿場も竹細工業を本業とする部落である。丹後でも竹細工專業の部落は各地に分布しているが、就中由良・府中・網野等にこの一族が多いと云われている。空󠄁也堂前副住職の言によれば、三丹にこの茶筅の徒が約1千戸あるという。
旦寺部落民の先祖は、もと平󠄁將門の一族或はその部下として武事に從つていたものであるが、將門が関東に據つて所謂天慶の乱を起すや、之に與して朝敵となり、平󠄁貞盛及び田原藤太秀郷によつて討伐せられた。それより後この一門族党は落人としてみじめな生活を送󠄁つていたのであるが、空󠄁也上人の御弟子となつた貞盛の歎願により、上人に救われて佛門に入り諸國を修業巡歷したのである。
上人は醍醐天皇第二の皇子にして一代の大德であるが、常に鉢を叩き念佛を唱えて市中を巡り、遍く庶人に佛果を得しめんことを力められたので、その鉢を叩いて歩かれた所より世人之を鉢上人といい、又常に庶人に接して道を說かれんため市中に出られた所から、市上人とも云つたのである。而してその下に參じて法を修する者、卽ち將門の残党の如きは之を鉢屋又は鉢と称した。
天暦5年(951)の夏都に疫病が流行した時、上人は勅命を受けて祇園の社に17日の祈願をこめ、佛の告げ給いし王服茶の効によりさすがの疫病を終熄せしめられた人にして、毎歲元旦に空󠄁也の茶筅にて茶を服すれば一年中疫病を除くというので爾來その部下に茶筅をつくらしめられたのである。
以上がその要旨であるが、今旦寺の部落民を鉢或は鉢屋といい茶筅というのは、みなここより起れるものであるというのである。
尚博士は、竹細工は本來先住土着人の手慣れた職業であつて、農民になり得ず何時までも之に從事したものが自然賤しまれるようになつたものとせられ、「ハチ」・「ハチヤ」は土師で本居翁の間人(はしひと)卽ち土師人といつたのと同一であろうと考えられた。「ハチ」・「ハチヤ」が果して土師ならば是は彌生式土器卽ち土師の器をつくつた先住民の落伍者と解せられる。駆使部・土師人・埿部・間人等何れも同じもので、本來田地を有しないが爲に種々の雜職に從事したものと思われると述べられているのであるが、これはたしかに尚討究すべき余地のあるものであろう。当部落にあてはめた場合特に時代的にあまり飛躍しすぎてはいないであろうか。
しかしそれはともかくとして、恐らく彼等は戰乱の時代に戰事に敗れた落人として何処からか此の地に移つて來た時には、殆ど附近の農耕地域は先住土着人によつて占有せられており、ために材料の比較的入手し易い竹細工業を專業とするようになつたものではなかろうかと思う。而して彼等は落人であり所謂他國者であつて、農耕地域にありながら農業を営まず、又宗敎的にも空󠄁也念佛宗の門徒であつて他の檀徒とは異なつており、ために地方民から自然一種異樣の感を以て接しられるようになつたものではないかと思われるのである。又彼等は、彼等民族の純血を尊ぶ內的理由、地方民の彼等に対する侮蔑感の外的理由、それに特殊な産業的技術的な面も幾分考えられるであろうが、これらの点から婚姻関係も同族以外とは殆ど行わず、一種の封鎖的な血緣若しくは地緣的共同團体(Ausschliessliche Gemeinschaft des Blutes oder des Erdes)を形成しているのであつて、以上種々の点が重なつて一般農民から永い間賤しめられて來たものと解せられるのである。
彼等を茶筅と呼び又鉢・鉢屋と称するのは、その起源は別として茶筅を製し又空󠄁也念佛宗の門徒であるからであろうと考えられる。
このように旦寺部落民は農業経済の地域にあつて農業を営まず、且つ社会學的に云えば純然たる共同社会(Gemeinschaft)と認められる、前述󠄁の如き一種の封鎖的な血緣若しくは地緣園体を形成しているのであつて、これら種々なる点によつて永い間一般農民から賤しめられて來たものと考えられるが、現在も尚このような傾向が一部殘存しているのではないかと思われる。しかし之が不当なることは云うまでもなく、封建的な凡ゆる惡習󠄁が民主化されるべき現代に於て、早急󠄁に改めねばならない重要な問題の一つであると思う。
而してわれわれはたしかにかかる部落に直面してその集落の人文󠄁地理學的な考察をなすに当つては、その地理的環境以外に、かかる職業風習󠄁等を決定せしめた所の歷史的民族的な面の考察を特に忽せにしてはならないと思うのである。(1950・8・26)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A2%E5%B1%8B%E8%A1%86
鉢屋衆(はちやしゅう)は祭礼や正月に芸を演ずる芸能集団であり、兵役も務めた。鉢屋党とも。元は平将門の乱で反乱軍に加勢した飯母呂一族で、平将門の死後、全国に散った。この時飯母呂一族の多くは山陰へ逃れ鉢屋衆となった。筑波山へ逃れた一部の飯母呂一族は風魔衆になったと言われている。
文明18年(1486年)には、京極氏に月山富田城を追放された尼子経久の富田城奪還に従事した。月山山麓に住む鉢屋賀麻党は毎年元日に富田城で祝いの舞を演じることになっていた。経久はこれに目をつけ賀麻党の党首・鉢屋弥之三郎を味方につけた。
文明18年元日、午前3時ごろ、賀麻党七十余人は笛、太鼓でにぎやかに城の大手門をくぐった。みな烏帽子の中に兜をかむり、素襖の下に具足をつけ武器を隠し持っていた。城の中では武士も子供も舞の見物に集まった。その時にかねてより忍び込んでいた経久の一党は太鼓の合図に経ち城内各所で火を放ち乱入した。それにあわせ賀麻党も烏帽子を捨て見物に集まった人々に襲い掛かった。城主・塩冶掃部介は自刃して果て、こうして経久は富田城主に返り咲いた。
この功で弥之三郎は本丸の北にある鉢屋平に長屋を与えられて住み「やぐら下組」と呼ばれるようになった。以降、鉢屋衆は奇襲やだまし討ちで功を立てる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A2%E5%B1%8B%E5%BC%A5%E4%B9%8B%E4%B8%89%E9%83%8E
鉢屋 弥之三郎(はちや やのさぶろう・生没年不詳)は、戦国時代の忍者。鉢屋衆の一人。尼子氏の家臣。
1484年(文明16年)出雲国の守護代・尼子経久が、主君の京極政経により追放された。経久は浪人生活の後、弥之三郎と出会う。居城月山富田城の奪回の協力を頼まれ、策を練った。その策とは、富田城の毎年恒例の万歳である。これを新しい守護代・塩冶掃部介の前で披露し、兵の気が緩んでいる隙を突いて、奇襲をかけるというものだった。
1486年(文明18年)元日、計画通り弥之三郎率いる鉢屋衆は、城内に入り、万歳を披露した。そして奇襲をしかけ、あっという間に城を獲った。これは鉢屋衆の活躍によるところが大きい。その後弥之三郎は、尼子の忍者となり多くの戦で、奇襲をするなどの活躍をした。末代まで尼子の為に戦ったのである。
https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100817/1282073048
沖浦和光『日本民衆文化の原郷 被差別部落の民俗と芸能』からのメモ。
鳥取藩の歴史を調べてみると、他の藩と同じく身分制の底辺に「穢多」「非人」がおかれているが、とくに注目されるのは「鉢屋」の存在である。彼らは、時宗の流れを引き、京都の極楽院空也堂を本山とする「空也念仏聖」の一派とされる集団だった。西国を中心に全国に空也念仏聖は分布しているが、とくに山陰地方に多かった。そこに居住する念仏聖は鉢屋と呼ばれたのだ。
彼らは、「百姓町人と対等の交渉なく、町村の端々に群居し、竹細工を業とす。根帳・五人組・宗門改など穢多に同じかりき」と『藩史』に出ている。
彼らは、鉢を叩きながら念仏を唱えて門付けして歩いたので、「鉢叩き」「鉢ひらき」とも呼ばれた。鉢とは、僧尼が持参する食器のことである。そこから、「鉢を開く」とは托鉢して回ることを意味した。
瓢箪を叩くこともあったのであろうか。京都の空也堂には、古い瓢箪がたくさんおいてあった。正月になると、念仏を唱えながら、竹細工でつくった茶筅を藁の苞にさして売り歩いたので、「茶筅」とも呼ばれた。
彼らは、空也上人(九〇三~九七二)に由来する漂泊の「念仏聖」の系譜を引くことを誇りにしていた。念仏踊りを特技としたから、中世の時代から芸能にゆかりのある賤民とみなされてきたのである。事実、彼らの中からいろんな芸能民が出たのである。(pp.165-166)
また、出雲・石見については次のように述べられている;
(前略)中世の末期の頃、出雲・石見の地方には、「鉢屋」と呼ばれた賤民層があった。
もともとは空也僧の流れを引く、踊り念仏衆の末裔であった。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら、貴賤・男女を問わず、すべての人は極楽往生できると説いて各地を托鉢して歩いた。「鉢屋」と呼ばれた小集落を形成して、実際には大和の声聞師と同じような役割を果たしていた。
戦国時代に入ると、尼子勢は彼ら「鉢屋」勢を組織して十阿弥を名乗らせた。尼子晴久の時代には権阿弥、松阿弥などが合戦に活躍したと記録に残っている。近世に入ってからは、竹細工・川魚捕り・渡守・神祭の警固・遊芸・下級警吏などの仕事にたずさわっていた。(p.240)
組織だって行動できるようになると自分達を賎民扱いしてくる人達に対抗するため組織のルーツを尊貴なものに求めたくなるのかな
サンカと呼ばれた人の大部分が明治期にその存在に気付かれて高度経済成長あたりでひっそりと姿を消したのは
全国的な大きな繋がりや組織制がなくて各地域の農村周辺で小さな集団が個々に存在していたからなのかも
こないだ沖浦先生と同世代の渡邊恒雄も亡くなったけど
そういう世代の研究者やジャーナリストが居なくなると
高度経済成長に消失していった漂泊民や
戦後の混乱期とかを利用して成り上がった権力者なんかに
直接会って研究したり取材した世代もいずれ消えて
書物の中にかつてこう人たちが居たと残されるだけになるんだろうか
歴史小説になってる
鉢屋秀吉 第一部 陰の一族
https://sakuhinsha.com/japan/3941.html
【内容】
「八の者」とは「鉢(蜂)の者」であり、「鉢屋」とも言われる。百済渡来の亡命道士を遠祖とするこの一族は、医薬師、鉱山師、鍛冶・鋳物師、土木、番匠、楽人などの技術者を多く含んでいた。やがて彼らは修験者や行者として生計を立てるようになる。 しかし大和朝廷による全国統一が進むにつれ、諸国遊行の自由人である彼らの存在は邪魔となった。藤原不比等による役小角の流刑とともに彼らも大和を追われ、各地へ散っていった。この時八ヶ岳に入った一族がサンカとなる。 長い流浪の歴史のなかで夜盗・野伏も生業とした彼らは、諜報・武術にも長け、政情不安ななか各地の守護や豪族に雇われるようになった。それでも鉢屋が賤民であることは変わらず、乱破、透破、突破と呼ばれて賤視されてきた。またその他にも、身につけた伝来の技術で糊口を凌ぐ者も大勢いた。
彼らは次第に遠祖、空也上人の流れを酌む、一遍の時宗へと移り、その多くが自らに阿弥号をつけるようになる。この者たちによって、連歌や能、花道、茶道、築庭などの文化も開花した。また大規模な商いによって巨万の富を得る豪商なども現れた。 「八の者」出身の秀吉は、千利休その他同族の支援を受けて成功するが、やがて私欲のために同族を裏切り、出自の秘密を知る利休を死に追いやる。空也、一遍の教えを継ぎ、弥勒下生の世の実現のため同族の与望を担って登場した秀吉も、同族を裏切ることで見放され、天下の覇権がやはり同族の世良田の次郎三郎(家康)に引き移されるまでが描かれる壮大な歴史ロマン。
鉢屋秀吉 第二部 筋者の道
https://sakuhinsha.com/japan/4360.html
【内容】
安国寺恵瓊の予言どおり信長は倒れ、秀吉が天下を取る。陰に蠢く鉢の者の闇の力。 光秀の謀叛、秀吉の大返し、利休切腹、秀頼出生の秘密、北政所の家康支援、小早川秀秋裏切りの背景、天海僧正の正体、春日の局の権力の由来など、徳川幕府誕生までの謎が一挙に解かれる。 黒須史観による瞠目の真説『太閤記』
秀吉サンカ説ってどっから来てるんだろうな
ある程度確かなのは秀吉が十代後半くらいに遠州の松下家に仕えたころからで
少年時代に預けられた寺から逃げ出して針の行商してたとか矢作川の辺りで蜂須賀小六に出会ったとかは講談や物語の世界の話だろうし
引用元 https://itest.5ch.net/lavender/test/read.cgi/min/1619229116/

