0001孤児
私の出身は三重の藤原・鈴鹿山脈の麓の部落です。
町名が「さざらい」というのですからサンカでしょうね。
親族は長身で色白で毛深く日本人離れしているので、
昔から、私は変な視線をを受け育ち、母は結婚差別を
受けたとか(内容は語らない)。下の記述はその根拠と
なるでしょうか?
一帯を開いたのが藤原氏の後裔だったから藤原と名付けられたと考えるのが自然だが、調べてみると、藤原岳の名の方が古いと思われる資料も多い。
藤原氏は「源平藤橘」四姓の実質筆頭であって、日本史上、最大の祖姓である。私は、4~7世紀頃、天皇家の先祖とともに朝鮮半島から集団でやってきた鉄器と騎馬文化をもった民族の後裔と考えている。彼らは九州北部~若狭に至る山陰地方に上陸して拠点を置き、九州・山陽道・関西・東海道に強大な勢力を広げ、米作文化をもたらした中国江南系の先住弥生人と激しく争いながら権力の主導権を奪い、円墳を遺した弥生人系ヤマト王朝から、方形墳を遺した騎馬民族系大和王朝に権力を移し変えた。その血筋は、一貫して天皇家とともに日本の貴族・武家支配階級の本流にあった。
だが、藤原氏の祖とされる中臣鎌足が、高千穂降臨の案内役たる猿田彦命の随臣の第23世子孫と称したことは、藤原氏の出自に微妙な陰影を与えている。「大化改新」に大功のあった鎌足は、669年、天智天皇から居住地の奈良県高市郡藤原の地名をとって「藤原」姓を与えられ、これが全国の藤某姓の発端となった。
藤原以外にも藤のつく佐藤、伊藤、近藤、武藤、斉藤、藤井、藤田、藤村、また黒田、落合、星野などの姓も藤原氏の変姓と考えられている。いずれも日本史に頻繁に登場する最大級の姓名で、武家の先祖は大抵、この一族に行き着くのである。
かつて、私の仕事先に二之湯さんという珍しい名字の方がいて、出生地を聞いてみると藤原町であった。員弁街道沿いに同名の酒屋があった。この方は港でトラック運転手をしておられたが、風貌は人品骨柄卑しからず、濃い眉、優しく大きな目、エラの張った堂々とした人相で、剛胆にして沈着、まさしく古武士の風格をもった方であった。
過去に、私は藤原氏の子孫とされる遠州の京丸藤原氏や平泉藤原氏のご子孫も拝顔したことがあるが、いずれも上に書いた特徴をもち、古武士を連想させる風格をお持ちであった。天皇・秦氏・紀氏など騎馬民族・貴族系の人相は薄い眉、切れ長の一重瞼が特徴なのだが、私の知る藤原氏の後裔と思われる人々は、どういうわけか目が大きい二重瞼の人が多く、天皇系の血筋の外見的特徴と似ていない。あるいは蝦夷の血が入っているのであろうか。
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0017私はサンカ
1>この引用文はどなたの文でしょうか。どの本にあるのでしょうか?
ほっておこうかと思いましたが、気になります。いい加減さや偽りが。
0018
沖浦 和光『幻の漂泊民・サンカ』(文芸春秋社、2001年11月25日、)
0019
>>18について、中国新聞の記事より
かつて山野を漂白し、サンカと呼ばれた人々がいた。比較文化学者の沖浦和光・桃山学院大学
名誉教授は、最近の中国地方での調査から、なぞに包まれたその実像に迫る著書「幻の漂白民
・サンカ」(文藝春秋)を出版。近世末期に飢饉で荒廃した山村からの流民を起源とする仮説
を明らかにした。
0002りーまん
四日市市Y町ですか? 私の三重の出身なんで。
確かに山間の谷に存してますね。
素麺がおいしいところではなかったかな?
江戸時代より蕃がよく変わる集落ですよね。忍蕃、桑名蕃、
幕府直轄、化粧領とも言われた(この意味はわからん)
0003酸化に会いたい。名古屋人。
賛歌みたいな人の噂を聞きました。
全然関係ない話ですが、聞いてください。
鈴鹿市北部に、四日市市と境を接する町で国分町と言うところがあります。
ここに十年以上も前から、ビニールテントを張って住んでいる一人の老人がいます。
彼は日雇い労働者ですが、竹篭細工が得意で、数千円で近所の人に作ってあげてるそうです。
噂ですが、かなり確かです。
詳しいことは、国分町の田中理容店の店主さんに聞いてください。
店に竹細工があります。
0082天之御名無主
員弁郡藤原町のことと思うが、
「さざらい」なる町名は見当たらないぞ。
0083天之御名無主
四日市市でしょう。漢字で書けば礫井。
でもこれが何故サンカだという証拠になるのか。
川の堰を管理していたというなら、むしろ非人部落ではないか。
素麺、菜種油が特産というのも非常に興味をそそる。
0084天之御名無主NGNGY市ならば、麓との形容は当たらないでしょう。
北勢地域にはサンカ伝説があるけど、
物証を示して欲しい
0085天之御名無主
実際に四日市市には下さざらい町という町名があります。
調べた限り三重県でこれ以外に「さざらい」なる地名は見あたらないです。
しかしここは海に近いですから、おっしゃるとおり麓という形容は
当てはまらない気がします。
まぁ小字などで「さざらい」という地名があるのかも知れませんが
私はこの地域の人間ではないのでそこまでは何とも。
0006天之御名無主
山窩かどうか分かりませんが・・・
養子にきたという父方の祖父の実家に連れて行ってもらっことが一度だけあるのですが、とんでもなく山奥の集落で皆同じ姓(私の家とは違う姓でした)で親戚だったと記憶しています。
小学生の低学年(たしか2年生の夏)だったこともあり細かいところは思い出せないんですけど、当時住んでいた町から車で1時間離れた町を流れている川の支流をかなり遡って行くと、谷間の
支流に沿ってその集落がありました。
それぞれ山奥の集落とは思えないくらい立派な家でした。
当時私の住んでいた町には親戚も多く住んでいて、私の家が本家と呼ばれ、もう一軒、元本家と呼ばれる家があったのですが、どちらも男子が絶えると前述の集落にある家から養子をとっていたようです。
特に印象的だったのが、その集落の親戚が遠く離れた山梨のやはり山の中にいるという話です。
その詳しい場所は忘れてしまいましたし一度も行ったことはないのですが、当時は車で行けないような所だと聞いた記憶があります。
これは山窩と関係があるのでしょうか?
00076
書き忘れましたが、私は長野県出身です。
私は母に似たのか170センチそこそこですが、祖父、父、叔父、叔母、弟はみな長身です。
他の人と比べて特に毛深いとは思いませんが、顔の彫りが深いとよく言われます。
0008名無しさん
サンカ(山の民)と呼ばれる人々の出自由来に
ついては、最近もさまざまな研究がなされているようです。
従来民間に喧伝されているような、縄文以来の原日本民族ではなく
一種の被差別民だったようですが・・・。わたしも三角寛氏の書などで
抱いていた多少のロマンが、最近少々こわれつつあるところです(^^;。
こちらが詳しいようです。↓但し膨大です。
ttp://members.tripod.co.jp/Accord/BIGLOBE/sanka.htm
0016私はサンカ
2>瞼は大切です。『シーボルトと日本』の手書き図に一重瞼や二重瞼
により、先住民、中華系、朝鮮系、南方系の区別をしています。
知人にはそのプロがいて、瞼の下がり具合で日本にいる高句麗、新羅、
百済、渤海系などの区別をしてました。『サンカ選集』にも子供の顔
写真があります。ただし、瞼は17~18歳までで、それ以外は変形
することもあり、当てにならない事が多いです。瞼以外にも判定基準
があります。漢人と百済人の系統は相当はっきりすることがあります。
0028天之御名無主
先月号かその前の号の部落解放同盟の機関紙に
サンカ特集やっとるどえ。
サンカの人のインタビューものっとる。
0029ひでよし
『部落解放 11月号』の「漂白に生きた人びと」ですね
僕もそれを読みました
沖浦和光氏は松平定信の『宇下一言』という自叙伝に
「天明のとし、諸国人別改められしに、まえの子のとしよりは、
諸国にて百四十万人減じぬ。この減じたる人、みな死にうせしには
あらず、ただ帳外れとなり、又は出家・山伏、又は無宿となり、又は
江戸へ出て人別にもはいらず、さまよいありく徒と成りにける」
とあることから、これらの「さまよいありく徒」の中から、「山野河川に
臥して瀬降り生活を営む「サンカ」が生まれたのではないか」という
説を書いておられます。
0033ひでよし
言い訳をするわけではありませんが、「漂白」と「漂泊」って、
よく間違えませんか?もしかして、僕だけですか?
まあ、その話はこっちに置いといて、
沖浦氏は「サンカ」という語の初出が安政2年(1855)に広島藩の
文書であり、それ以前には山中を漂泊し、竹細工と川魚漁を生業と
するような存在が記録として見られないことを指摘しています
幕末期には度重なる飢饉のために都市へと流入する「にわか非人」
が急増したといわれていますので、その一部が山中へと逃散したと
いう可能性は高いと思います
しかし、「サンカ」が発生するより以前から、竹細工や川魚漁を生業と
する者もいたはずですし、山中へと逃散しても生活に適応できたのか
など、不明な点も数多くありますので、即断はできません
0035天之御名無主
古来「鬼」と呼ばれた人たちは関係してるのでしょうか?
吉野の国栖とか葛城(土蜘蛛)とか..
0036東沢美史
>>1の孤児さん、はじめまして。
去年からあなた様の書き込みを何度も読んでいて何らかのヒントに
なればと思って書かせていただきます。
私の家は東北安部家を祭祀するウズメ(サンカのようです)の信仰者です。
八幡太郎義家と戦ったこの安部一族の血筋に平泉藤原氏があります。
この地区の方は背丈があり、色が白くて目が大きいなどの特長はあります。
また、そういう方は一般イ多くいます(私自身はそうでないけど)。
鈴鹿近辺と奥州平泉藤原氏の地域と歴史的に人の交流はありましたし、
信仰の面でいえば明治の頃ですが私の家でさえありました(伊勢参りだけじゃなく)。
三重では大おじは車引き、大おばは巫女の口寄せの世話などの仕事してました。
その前から東北と三重県、私の家の場合鈴鹿の南のほうですが
そちらには受け入れる態勢があったのではと思います。
それが、部落とかサンカとか正確にはいえませんが。
また私の町など忍者の屋敷や地中に深くトンネルが
中世のお城に掘り廻らされてるところが多くある地区でして
伊賀の忍者との関係はありそうなんで関連調べたいとおもってます。
特に地元では今でも芭蕉の立ち寄った地をめぐって激論を交わす人が多
いのですが、芭蕉は伊賀の忍者だから仲間のいた地域を、朝廷に歯向かった
平泉をヒイキしたなどという考えを持つ人が東北では多いです。
それから>>33のひでよしさんの書き込みが気になりますが、
私のウズメ仲間の多くの信仰者は修験が禁止になった【廃仏毀釈】や
そのずっとあとの住みついた山々の御神域やお堂から追出される
【神社合祀令】が「サンカ」のように漂泊するようにになった
一番の原因だとおもっていました。
でも、サンカ関連の書籍を読む限り、サンカの発生に
「廃仏毀釈」や「神社合祀令」を原因とするような記述は読んだことが
ないので私共の地域だけかもしれませんが。
それでも、しかしなんですが、
三重県の場合は平成の今でも柳田や熊楠などの書籍の
出版があるように、この神社合祀令あたりを郷土史の文献などを参考に読めば
あるいはヒントがでてくるのではないでしょうか。
自然のめぐみを抱える豊かな山々のご神域はサンカが自由に生活できる
広大なものでありました。
しかし日本の府県で一番厳しく神社合祀令という名の、山に自然に住んでた
人々の追出し政策が行なわれたのが三重県でした。
一般にサンカ研究では触れられていないようですが、鈴鹿にいた、おお伯母の
話しから三重県の特殊な歴史事情もあるかとおもいましたので・・・。
0036東沢美史
>>1の孤児さん、はじめまして。
去年からあなた様の書き込みを何度も読んでいて何らかのヒントに
なればと思って書かせていただきます。
私の家は東北安部家を祭祀するウズメ(サンカのようです)の信仰者です。
八幡太郎義家と戦ったこの安部一族の血筋に平泉藤原氏があります。
この地区の方は背丈があり、色が白くて目が大きいなどの特長はあります。
また、そういう方は一般イ多くいます(私自身はそうでないけど)。
鈴鹿近辺と奥州平泉藤原氏の地域と歴史的に人の交流はありましたし、
信仰の面でいえば明治の頃ですが私の家でさえありました(伊勢参りだけじゃなく)。
三重では大おじは車引き、大おばは巫女の口寄せの世話などの仕事してました。
その前から東北と三重県、私の家の場合鈴鹿の南のほうですが
そちらには受け入れる態勢があったのではと思います。
それが、部落とかサンカとか正確にはいえませんが。
また私の町など忍者の屋敷や地中に深くトンネルが
中世のお城に掘り廻らされてるところが多くある地区でして
伊賀の忍者との関係はありそうなんで関連調べたいとおもってます。
特に地元では今でも芭蕉の立ち寄った地をめぐって激論を交わす人が多
いのですが、芭蕉は伊賀の忍者だから仲間のいた地域を、朝廷に歯向かった
平泉をヒイキしたなどという考えを持つ人が東北では多いです。
それから>>33のひでよしさんの書き込みが気になりますが、
私のウズメ仲間の多くの信仰者は修験が禁止になった【廃仏毀釈】や
そのずっとあとの住みついた山々の御神域やお堂から追出される
【神社合祀令】が「サンカ」のように漂泊するようにになった
一番の原因だとおもっていました。
でも、サンカ関連の書籍を読む限り、サンカの発生に
「廃仏毀釈」や「神社合祀令」を原因とするような記述は読んだことが
ないので私共の地域だけかもしれませんが。
それでも、しかしなんですが、
三重県の場合は平成の今でも柳田や熊楠などの書籍の
出版があるように、この神社合祀令あたりを郷土史の文献などを参考に読めば
あるいはヒントがでてくるのではないでしょうか。
自然のめぐみを抱える豊かな山々のご神域はサンカが自由に生活できる
広大なものでありました。
しかし日本の府県で一番厳しく神社合祀令という名の、山に自然に住んでた
人々の追出し政策が行なわれたのが三重県でした。
一般にサンカ研究では触れられていないようですが、鈴鹿にいた、おお伯母の
話しから三重県の特殊な歴史事情もあるかとおもいましたので・・・。
0038ひでよし
せっかくレスしてもらったので、返事だけはしておこうかなと
思っただけですので、別に気にしているわけではないんです
沖浦氏の説の続きを書いておいたほうがいいかなと考えて
いた時でしたので、いいきっかけになりました
(なんか、言い訳してるみたいだな・・・・)
まあ、その話はこっちに置いといて、
文久3年(1863)に備後国恵蘇郡で郡内の村に宛てて出された
「盗難防止のため見廻り組を作りさんかの者の追払いヲを命ずる
書付」が残されています
そこでは、最近は盗難が頻出しているが、それを捕まえてみれば、
「何れも山家之族」であったとし、見廻りを強化して「見当り次第」に
捕まえて調べることを命じています
それに続けて「山家」となった「無宿者」は、「所業之善悪ニ不相拘
男女老幼無差別坊主ニいたし、元来之坊主ハ両眉剃落」ようにと
命じています
0039ひでよし
①「山家」が盗賊と同一視されていること
②「無宿者」が「山家」になったと考えられていること
③「男女老幼」とあることから、性別、年齢が幅広い集団であること
④「元来之坊主」とあることから、僧形の宗教者も含まれていること
これらの点に注目するべきなのではないでしょうか
0040備後国
文化文政期、尾道で財をなした豪商に「灰屋」がある。当家は金融業として
知られているが、他家に先んじて文人墨客をもてなした。頼山陽、田能村竹田
と密に交流のあった、橋本竹下は特に有名。菩提寺は遊行で知られる時宗。
灰小屋、橋本旅館(橋の下)、竹細工、旅の文人、遊行の僧とサンカのキーワ
ードとの関連が多いのに驚いています。
0044天之御名無主
どう考えても、サンカの発生は江戸後期だと思うなあ。
漏れも「サンカ古代民族末裔説」にロマン感じていろいろ調べた結果
そんなこたぁない、と思い出した。
0046サンカ還元
ありゃ否定されたみたいよ。
江戸前期の「箕作り」といわゆるサンカ、一部重なってると
思うけど、「古代民族末裔」はちょっとなあ。
三角野郎の実態もわかってきたし。残念だけど
幕末発生説を今では信じてます。
0045天之御名無主
説教強盗の正体が「サンカ」だという説についてはどう思う?
0047ひでよし>>45
礫川全次氏は『サンカと説教強盗』(批評社、1992)で、特殊な道具・技能を用いる
窃盗犯を指す「山窩」が定着し、各地で「オゲ」「ミナオシ」「ポンスケ」などの様々な
名称で呼ばれていた竹細工や川魚漁を行う集団が「サンカ」と呼ばれるようになった
のではないかと書いておられます
それを踏まえた上で、「サンカ」の発生は近代以降とする説を書いておられるのです
が、沖浦氏の研究によって江戸時代後期に「サンカ」(「山家」と表記されることが多
かった)について書かれた史料があることが明かにされていますので、近代発生説
には問題があるようです
0048ひでよし
礫川氏は倒幕によって活動の場を失った忍者が「サンカ」集団に流入した
可能性についても書いておられるのですが、忍者の実態にも不明な点が
多くありますので、即断はできないのではないでしょうか
0049天之御名無主
ほのかに電波な匂いがするんで、古代人末裔説ってのも嫌いではないんだけどな
0050天之御名無主
きょう、萩原健一主演「瀬降り物語」をレンタルビデオで見ました。
戦時中のサンカの暮らしぶりを描いたものでしたが、驚くべき内容でした。
これは概ね本当なのでしょうか?
このような人たちはいつまでいたんでしょうか?
今ではもういないのでしょうか?
ご存知の方、教えてください。
0051ひでよし
昭和30年代ぐらいまでは山中を漂泊し、川魚漁や竹細工を行っていた
集団が全国各地にいたのは確かなようです
『部落解放 11月号』の特集(「漂泊に生きた人びと」)には、「サンカ」で
あった方へのインタビューなども載っていますので、一読をお薦めします
「瀬振り物語」に関しては未見であるために断言はできませんが、「事実」
を誇張した部分も多いのではないかと思います
ところで、「瀬振り物語」は「作品」としては面白かったですか?
機会があれば見てみたいのですが、TUTAYAにリクエストしても断られ
そうだし・・・・どうすればいいんでしょう?
0052p
Gサンカは日本版ジプシーのような物と考えて良いのでしょうか
0053☆キュストリン☆
ひょえー、なんか面白いなこのスレというか賛歌って。
個人的には西アジア→東南アジア説がロマン感じていいなぁ。
人類が東へ東へと移動した果てのひとつの(完全なとはいわないが)
終着点だもんな。日本人混血民族マンセーですは。
0055天之御名無主
>>51
レスをありがとうございます。
私は以前からサンカに興味があり、2ちゃんねるのサンカスレにたびたび話が出ていた映画「瀬降り物語」をレンタルビデオショップで見つけたときには小躍りしたくらいです。
1984年の東映作品で、萩原健一、内藤剛志(二人とも若い)、殿山泰司、早乙女愛、藤田弓子(なんと全裸を披露)らが出演しています。中でも萩原健一が抑えた演技で良かったと思います。
ストーリーは、サンカと村人たちとの接触と軋轢を描いたもので、特にどうというものではありません。
それよりもこの映画は、サンカに関する習俗、風習、宗教、思想、生活などかなり多くの情報を提供してくれて興味津々でした。
(でも、あんな吹きっさらしのテント生活で、厳しい冬を乗り越えられるとはとても思えないのですが…)
昭和30年代頃までいたらしいとのことですが、すると、その子や孫らはもう一般人化してしまっているんでしょうね。
今なら、その人たちから真実の様子が聞けるかと思いますが、誰か研究している人はいないのでしょうか?
ビデオが手に入ることをお祈りいたしております。
0057ひでよしNGNG「瀬振り物語」ではなくて、「瀬降り物語」ですよ、って僕も間違ってますね
これは失礼しました
「漂泊に生きた人びと」によると、「サンカ」が移動を繰り返しながら川魚漁
を行っていたのは春から秋にかけてで、冬は箕や箒などの細工と行商を
行い、羅宇の挿げ替えや春駒などの門付け芸も行っていたそうです
「サンカ」にもそれぞれ帰るべき家があり、春祭りが終わると家を出て、秋
祭りには帰ってきていたそうですので、完全な漂泊民だったというわけでは
なかったようです
0061天之御名無主NGNGやっぱり、サンカは幕末ごろに集団発生した、逃亡農民の末裔と思う。
いっとき三角、八切の影響受けて調べたけどねえ。
0062天之御名無主NGNG幻の漂泊民・サンカの最後の方で元サンカの人が
三角に対してかなり怒ってたな
『自分の娘の裸を写真に撮らせる親がいるか!』みたいなことを言ってるの
読んで、それもそうだなと思ったよ
0063ひでよしNGNG江戸時代には宗門改制度により、百姓・町人から穢多、非人まで、
すべての人々が幕藩権力によって「身分」として把握されていました
現在の戸籍に相当する人別帳から外れた人々は、「無宿」「野非人」
などと呼ばれて取り締まりの対象になっていました
瀬戸内海から九州北部にかけて分布していた「家船」と呼ばれた海を
漂泊していた漁民も、人別帳に記載され、五人組を組織し、盆と正月
には根拠地へと戻って来るように定められていました
0064ひでよしNGNG江戸時代の身分制度の中に「サンカ」を位置付けようとすると、
そこにはいくつかの疑問点が浮かび上がってきます
その一つが、宗門改制度から逸脱し、漂泊を繰り返す「サンカ」に
対して、幕藩権力はどのような対応を取っていたのかという点です
それについて記した文献史料は幕末期のものを除くと、現時点では
発見されていないようです
それは「サンカ」には独自の組織・文化があり、他の人々とはまったく
触れ合うことがなかったからでしょうか
それとも、それ以外の理由があるのでしょうか
0065天之御名無主
>>63
>瀬戸内海から九州北部にかけて分布していた「家船」と呼ばれた海を
>漂泊していた漁民...
漁労民は全国の沿岸地帯にいたのに、瀬戸内海から九州北部だけに「家船」形態が
あったの?。家財というか、生活道具はどこに保管していたの?
日本海側の丹後半島の舟屋形態とは、どう違うの?
0073
>瀬戸内海から九州北部にかけて分布していた「家船」と呼ばれた海を漂泊していた漁民...
この区域に住んでる漁民だけど見たこと無いよ。親父に効いたけど見たことも聞いたことも無いとのこと。
ただ、瀬戸内の漁民は移動が多いですね。うちも移住した漁民ですね。
0086土佐の山奥
[土佐・いざなぎ流に生きた人々]http://members.tripod.co.jp/juntarou/
の中にサンカ族の記述がある。
鉢が森と川ノ内との間に、日御子川という大変美しい川が流れている。
川ノ内側の近くに、お花淵と呼ばれている大きな淵がある。
その時、たまさか通りかかった徳次と繁樹は、遺体を引き上げ村人に知らせ
警察に連絡を頼んだ。しかし、なにぶん山深い土地である、
おいそれと車が通るような道ではない。
徳次と繁樹は、火を焚き、お花さんの通夜をしながら夜を明かすことにし
た。
とっぷりと日も暮れ、山深くせまりくる闇は焚き火とてお互いの顔が見える
だけの恐ろしい風景であった。繁樹は、不安で身の縮む思いだったが、
祖父 徳次のあげる通夜の経は、むしろ慰めとなった。
しばらくすると、山犬か、狼が何頭も見え隠れする。
恐ろしさに、繁樹は徳次にしがみつき震えるばかりであった。
徳次は、何の表情も変えず『怖くないよ』と火に薪をくべながら言った。
持っていた握飯をポンと投げてやり、
「一緒に伽をしてくれたら、赤い飯を食わすぞ」といった。
其れからは決して彼らの前に姿を見せることはなかったが、
常に気配はしていたという。
やがて朝が来て、遺体を警察に渡すと、二人は川ノ内への帰宅を急ぐことに
した。
すると姿は見えないが、ごそごそとあとをついてくるものがいる。
徳次は『心配いらん、赤飯を食わしてやるけん』と見えぬもの達に言った。
やがて川の内の家に戻ると、すぐ赤飯を炊いて藪の中に入っていった。
しばらくすると、空の器だけを下げて帰ってきた。
この徳次なる人物は、そんな山深い里で何をして暮らしていたのだろうか。
良くは理解できないが、今ではもう一般の人の中に溶け込んでしまった
サンカ族の一人ではなかったかと思われる。
繁樹の記憶では、芋や山のものを料理するとき、
銀のお鍋を使っていたことや、山の知識や獣に話し掛けるなど、
普通ではなかったらしい。
0088天之御名無主
ちょっと質問があるんですけど、ここって人来てるの?
0089天之御名無主
居る
0092
>89
よかった。ちょっと気になっていることがあるんです。御意見お願いします。
今から十数年前、僕が小学2,3年ぐらいのときのことなんですが、
不思議な親子に出会ったんです。
父と息子の2人連れで、身なりはちょっと粗末な感じで普通とは違う仕立て、
変わった装飾があったように思います。でも不思議と外国人とは思いませんでした。
まず子供のほうを見かけて僕のほうから話し掛け、手を繋いで遊ぼうとすると
そこに父親とおぼしき人物が現れてその子を連れて帰って行ってしまいました。
その父親のほうはスラリとしていて、子供心にきれいな立ち姿だと思ったのを
憶えています。
たったこれだけのことなんですが、不思議な体験として妙に気になっています。
大人になって漂泊民というのがいるらしいと知ってから思い出したんですが
そういえば昔、祖母が「山には恐い人がいるから」とうちに来ても
山のほうを窺っていたこともありました。
ちなみに僕の住んでいる町に当時はホームレスはいませんでしたし、
今でも歩くには遠い駅前に一人か二人いるぐらいです。
場所は奈良と大阪の県境、生駒山の麓。山際にある住宅地です。
0097天之御名無主
民俗神話板ってどうしてレベルが低いんだろ…
0099天之御名無主
レベル低かろうがちょっとした経験談にも示唆的なものが有るって解らんのか
0107天之御名無主
宮崎にはサンカさんはいらっしゃるのでしょうか?
平家落人伝説の椎葉とか、五ヶ瀬あたりに多そうですし、
実際、宮崎市内中心部の裏路地で勝手に露店を開き、
何本も上積みした立派な鹿の角を売ってる人をみたことあります。
肌が真っ黒で痩せてながらも、スゴイ筋肉質の男性でした。
身なりは汚かった。
あれはきっとサンカだ!
0108天之御名無主
滋賀県の山奥にも木地師が居たようですが、
電気がこないため昭和30年~40年代に廃村となり
記録が失われつつあります。
多賀あたりだと、昔は三重県との繋がりが深かったらしいです。
0129天之御名無主
ここにもっと書き込みがあるといいなあと思ってるんだけど…
自分は全然サンカ系ではない。でもサンカにずっと興味があって
サンカの人の末裔がどうなっているのか本当に知りたいからさ。
0130天之御名無主
俺の親父はサンカの末裔です。
平成の現在でも熊本の山奥に入り猪罠(いのししを原始的な罠で絞め殺す)を仕掛け取って来きます。
年に10頭前後は取れるみたいです。取れた猪は1頭12万前後で買い手が着くそうだ。
俺も帰省した際は必ず猪鍋を食べます。猪鍋はすき焼きより好物です。
たまに鹿が掛かる事もあるが外道と言い捨ててしまいます。
新鮮な場合のみ内臓(レバー)を生で食します。
鹿の肉も生刺しで食べた事があるが馬刺しよりさっぱりしてうまかった。
そんな親父ももうすぐ60だし山仕事がきつくなったと言っている。
そんな親父の息子の俺は東京でリーマンだ。
0131天之御名無主
サンカの末裔と言っても俄かに信じがたいと思うので詳細をかく。
猪鍋の肉は、テレビで見るようなすき焼き風の薄切りではない。
毛を剃った痕が残る皮付きのぶつ切り肉を使う。
ほんとにうまいところは皮と皮下脂肪なのだ。
初めての人はとても食べられないだろうが小さい頃から食していれば皮のうまさを知っているので皮なしの肉は食べられなくなる。
夏は、川魚を取ってくる。うなぎやスズキなどこれも網など使わない。
親父はカナツキというがモリで取ってくる。
天然うなぎの油ののりは最高で1度食べると養殖物は食べられない。
鮎は投網(トアミ)でとる。天然あゆの相場を知ってる人は少ないだろうがこれが大き収入源だ。
0133天之御名無主
良レスですねえ!
こういったやや個人情報を含んだカキコというのは書きづらいところもあるでしょうけれど、
個人の体験であるだけに、やはり書籍などにはない活き活きとしたその場の情景が思われて、
都会で生まれ育った自分にも、なんだか懐かしいような熱いものが心に沸き上がるような感動を覚えます。
差しさわりがない範囲で結構ですので、またぜひお話を聞かせてください。
民俗学だからこそ、こうしたお話が有効なのだと思いますよ。
フィールドワークやインタビューがあったからこそ、今の民俗学に繋がっているのですから。
0135天之御名無主
>>130 いいなあ、猪鍋に天然ウナギ……(゚д゚ )
あ、そこじゃないか。話のポイントは。
以前、宮崎の椎葉村でのイノシシ狩のビデオを見た事があるんですが、
そのビデオはイノシシを捕獲した後、(収獲と無事を祈って)生のイ
ノシシ肉を神様に奉納したりしたんですが、130さんの地区では狩り
の前後に神事的なものを行ったりしましたか?
0138天之御名無主
>>130-131
へええ…。こういう話が聞きたかったんだよ!
お父さんは、一人で暮らしているのかな?
戸籍などはどうなっているのでしょうか?
今でもサンカ同士での連絡はあるのかな?
差し支えなければ、是非。もっといろいろ聞かせてください。
0139天之御名無主
先祖は、山を降りて以来、馬の調教(・・・?と聞いたけど忘れた)を生業としていたらしい。
その後、馬の需要もなくなり山師(きこりの手伝い・狩猟)をしながら親父の代になる。
親父は、猟銃も所持している時期も合り猪狩りで生計を立てていた。
>>135の言うモノは猪の尻尾を山にささげると聞いた。
歳の初めに山に入る際は必ずお神酒をささげお祈りをしていた。
今まで食べた動物で後で知って驚いたのが、日本カモシカもだった。
臭みもなく筋張っていたがうまかった。
サンカは日本の秘境をしる最後の日本人だとおもう。
何も知らない愚民どもに差別される由縁はない。
0146天之御名無主
ちょっと八切の影響受けて調べたことあったけど、
やっぱサンカ(世間師)ってのは江戸末期の流人に
狩人、木地師、世捨て人の一部が混入したんだと思う。
いろんな伝承はま、口承版「河原巻物」みたいなものか。
「太古から自然とともに歩んだ部族」てなものを期待したんだが。
あ、T元首相は「世間師」と言うか「バクロウ」みたいだ。
0147天之御名無主
>>146
世間師=サンカと考えてしまっていいの?
宮本常一の本に出てくる世間師はサンカという感じじゃないと
思ったけど…
0148天之御名無主
うちの母親などは「カワラ」と呼んでいた。これには差別的な意味合いが
込められている、「カワラコジキ」のことだろう。
戦前、戦後直ぐぐらまでは何処にでもいたようだ。
サンカの川漁は主に「流し鉤」が用いられる。一種の延縄漁法である。
恐らくドジョウあたりをエサにしてのウナギ漁だろう。
サンカはアユ獲りはしない、そういう不文律が存在したのだろう。
戦後、全国の川に堰やダムが多くできてそれに伴い、ウナギの自然遡上が
激減した。サンカが消え去っていった主因は、これではなかろうかと
私は推測するのであるが・・・
0223天之御名無主05/03/19
刃物板で、ウメガイの使い方について聞いて見たけど、おおよそ実用にほど遠い形状なんだそうです。そんな刃物を後生大事に抱え、山を移動していた人達がいるとはとても思えない。
0224天之御名無主05/03/20
:本当にあった怖い名無し :05/02/13 10:36:52 ID:OOscnUVU0
先日、地元の渓流釣の解禁を受けて山奥へと岩魚を狙いに出掛けた。
一晩は山の中で過ごす積もりで、それなりの装備を持って昼から出掛け、
その日の夕方から釣り出した。
自分の秘密の場所なので他に釣り人も居らず、天子を五匹、岩魚を四匹釣って
川原の岩陰にツェルトを張って、飯を炊いて魚を焼き、
骨酒を作って飲んだりしながら過ごしていたら、
木々の間から人の話し声が聞こえてきた。
0225天之御名無主05/03/20
:本当にあった怖い名無し :05/02/13 10:39:11 ID:OOscnUVU0
もう辺りは真っ暗だったので、「こんな時間に上ってくるなんて珍しいな」と思い
話し声がする方を見ていると、男と女がこちらに向かってくるのが見えた。
近づいてくる彼らを見ていたら、明らかに普通の人間じゃない。
男は髭だらけの顔で、目が深く落ち窪んでいる。まるで原人のような風貌だ。
女は切れ長な目のキツそうな美人だが、まだ幼さを残している。
そして、何よりも奇天烈なのが服装だ。
男は襤褸切れのような布を何枚も巻き付けているだけ。
女は薄桃色の着物なのだが、だらしなく肌蹴ている。
0226天之御名無主05/03/20
:本当にあった怖い名無し :05/02/13 10:41:02 ID:OOscnUVU0
その場所は相当な山奥で、林道の執着点から川沿いに何キロも登ってきた所。
雪もかなり深く、この時期に入り込むのは俺のような酔狂な釣り人くらいのモノだ。
俺はあまりの異様な事態に、呆然と彼らが近づいてくるのを見ていた。
彼らは俺のいる川原の対岸に降りてくると、男の方が「今晩は。」と挨拶をしてきた。
異様な風体からは想像も付かない普通の挨拶に、
「アア、コンバンハ」とすっ呆けた声で応じてしまう俺。
彼は「寒いですなあ。火に当たらせてもらえんですか」と普通の声で言う。
俺は「ああ、どうぞ・・・。」と答え、彼らが川を渡ってくるのを呆然と見ていた。
男は女を抱き抱え、3メートルほどの川を一飛びにこちらへ渡り、俺の対面に座った。
すると、女が男から降りていきなり俺の膝に乗ってきた。
俺は驚いたが、男は何も言わないし、もういったい何が起こっているのか
理解の範疇を越え過ぎていて訳が分からず一言も発せられなかった。
0227天之御名無主05/03/20
:本当にあった怖い名無し :05/02/13 10:42:34 ID:OOscnUVU0
彼女は俺の膝の上で火に当たりながら、俺の手を握って来た。
女は意外なほど軽く、手は冷たく、体は冷え切っていた。
黒々とした髪からは若葉のような香りがし、銀細工のような飾りが一つ有った。
男が何処から出したか竹筒の水筒を口に運び、何かを飲んでいる。
俺もまた、先程作った岩魚の骨酒を飲もうかと片手を女の手から離して茶碗を掴んだ。
酒を一気に飲み干し、中の岩魚をもう一度火にくべて焼き始めると
女の腹がぐうと鳴るのが聞こえた。
「腹が空いてるのかい?」と聞くとこくんと頷いたので、先程釣った魚の残りを焼き、
炊いておいた飯を出して盛り付け、沸かした湯で出汁入り味噌を溶いて味噌汁を作り、
女に出してやった。男が「スマンですなあ。」と言うので「あなたもどうぞ」と男にも渡す。
二人はがっつく事もなく、むしゃむしゃと飯を食っている。
0228天之御名無主05/03/20
:本当にあった怖い名無し :05/02/13 10:45:05 ID:OOscnUVU0
その光景を見ていたら思考回路が戻ってきたので、俺は男に「貴方達は何者ですか?」
とストレートに尋ねてみた。
男は、「ワシはごろう、其れ(女)はきりょう。これから奥羽のおじきの所へ向かう所ですわ。」と答える。
「ハアぁ・・・。」俺は聞きたいのはそんな事じゃないんだが、と思ったが言えなかった。
飯も食い終わり、しばらくすると女は軽い寝息を立てて寝入ってしまった。
男も雪の上にゴロンと横になり、また竹水筒を口に運んでいる。
俺もかなり酒を飲んで眠くなってきたので、
マットの上で女を抱いたままシュラフに潜り込んで寝てしまった。
0229天之御名無主05/03/20
:本当にあった怖い名無し :05/02/13 10:46:20 ID:OOscnUVU0
翌朝、寒さで目が覚めると俺は一人でツェルトの中でシュラフに包っていた。
ハッと飛び起きジッパーを空け外を見ると誰もいない。
「なんだ、夢だったのか・・・?」と思いつつツェルトから這い出したら、
昨夜座っていたマットの上に銀細工の髪飾りと竹水筒が二つ置いてある。
髪飾りを手に取り「夢じゃなかったのか・・・?」と思いつつ竹水筒を開け、
一口含んでみると、爽やかな笹の香りのする酒だった。
0230天之御名無主05/03/20
これはサンカ?山人?
0231天之御名無主05/03/20
それ以前になんで銀細工の髪飾りと竹水筒を置いていったんだろ?彼等の格好から考えてもお礼にしちゃ度が過ぎている。
0234天之御名無主2005/03/26(土)
柳田国男が仮説の段階で研究を中止したサンカ(つまりいるかいないかわからない状態で研究中止)に関する著述をたまたま読んだ三角寛他が存在をデッチ上げたとしか思えないんだよな。
(いくら仮説とは言え柳田がその存在に触れた文章を書いていれば、有名民俗学者のお墨付きとかいうハッタリに使えるからね。)
天人とかウメガイとか使っていたというけど、実際の遺物なんて残っていない。
証拠がないのそんな連中が存在していたなんて思えないな。
江戸時代に年貢を納められないので山に逃げ込んだ百姓とか山賊とか犯罪者とかがたまたま明治時代まで山で生活していて、その生き残りじゃないのか?
サンカが存在していると主張する連中の掲げる証拠というのは他人が書いたうさん臭い文章ばっかなとこが笑える。
証拠がないのは権力者(警察とか)が隠しているからだと言い張るんだもんな。
これってオカルト信者が自説に根拠がないことを突っ込まれると、よくその言い訳に使う常套手段(秘密結社が証拠を隠しているとか、南極の氷の下にあるとか)なんだよな。
0243天之御名無主2005/03/28(月)
柳田国男の”山の人”については熊野の南方熊楠に否定されて、柳田が研究をやめたらしいが、そのお膝元の人間がサンカの妄想に取りつかれているのは面白い話しだと思う。
0248名無しさん@お腹いっぱい。2005/04/17(日)
が山人研究を止めたのは南方熊楠に否定されたからではない。
南方は神社統合などで具体的に紀伊の被差別部落を良く知っていたから
柳田が本気かどうか度胸を試したんだな。
同じ頃、水平社が結成されて
とても学者風情の干与できる案件で無いと柳田はあきらめたわけだ。
柳田は役人の経験もあれば人種問題も日韓併合の法整備や国際連盟や委任統治で関わったから
直ぐに分かったわけだ。
0479天之御名無主2005/12/23(金)
じいちゃんはガキの頃(昭和10年代)に、サンカが瀬降ってるのを見たと言ってた。
場所は足柄だったと思う。
0480天之御名無主2005/12/27(火)
うちの爺ちゃんはガキの頃、サンカの子と福島の川で遊んだって言ってた。
やはり時代は戦前。
0481天之御名無主2005/12/27(火)
東北にもサンカのトケコミがあるが、現在では普通の田舎にしか見えない。
0482天之御名無主2005/12/29(木)
サンカなんていない。いい加減に眼をさませ。語りたければオカ板に行けよ。
伝統文化を持った山の民の集団が歴史上延々と存在したのではなく、単に山に住んでいるホームレスのような人がいたってだけの話しだろ。それを勘違いして妄想しているだけだ。
ウメガイにしても刃物板で前に聞いて見たが、実用性に乏しい刃物で、それを使って山で生活できないそうです。
0483天之御名無主2005/12/30(金)
祖父が子供のころサンカやその他の色んな人たちの存在はあたりまえに知られてたって
話を聞いた。時々やってきて作った物を売りに来たり修理したりしてたそうだよ。
関東(東京西部と千葉南部)なんで西ほど差別がなかったんだろうと祖父は言ってた。
その頃は何の事言ってるかよく分からなくて、行商みたいな人達なのかと思ってた。
0484天之御名無主2005/12/30(金)
山に住んでいた人(山賊とかね)がいたことは確かなんだけど。
そのような連中が過去から延々と続く伝統文化を有する独特の民族だったわけじゃない。サンカという言葉は昔の警察用語で、山窩と書き、山の洞窟等に居住する乞食等の総称のこと。サンカという民族がいたわけじゃない。
上に書いているような人はアルプスの少女ハイジに出てくるアルムおんじみたいなもんだよね。アニメにも描かれているが時たま村に降りてきて、チーズ売ったり、壊れたところを修繕してお金とか物もらっているシーンがあったでしょう。
0501デルフリ村住民2006/01/21(土)
アルプスの麓に住んでいるものです。時々山に住んでいる白い髭をはやしたごつい体格の老人が、村にチーズを売りにきます。彼もサンカなのでしょうか?
0509天之御名無主2006/01/24(火)
セケンシだったという家は オレの実家の近くにいるよ。
昔かわらで 動物の皮をなめしていた。その後 事故車の解体屋 いまの孫の世代は 定住して
普通の会社員。よくアイヌ系と間違えられるそうです。ちなみにセケンシって特別な基準はないからね
いろんな人がいますよ でも昔みたいに マタギや竹細工や木地やさんで食べていけないので
ほとんど みんなと一緒に生活しているんじゃない。ちなみにサンカって言わないでね
サンカって周りの人からみた言い方 ぜんぶごちゃまぜにした それも馬鹿にした だから
0512天之御名無主2006/01/28(土)
動物の皮なめしは被差別部落での仕事です。その人達はサンカではない。
0514天之御名無主2006/02/02(木)
>>512
サンカは川伝いに瀬降り(セブリ)ながら、箕や竹細工を売りに里まで降りて
くる。一方被差別部落の多くはその生業(皮なめし等)から河原周辺に点在す るためサンカと接触する機会も多く、溶け込みサンカの多くは被差別部落
に同化していったとも考えられる。
部落に溶け込んだサンカが皮なめしをしていてもなんら不思議ではない。
0516天之御名無主2006/02/04(土)
山に暮らしていて、時々里に降りてきては、山で自分が作った物を売りにくるのではアルムおんじと同じです。そのこと自体はサンカの存在の証明にはなりませんよ。
0536テンバ、ユサハリからの独り言2006/02/09(木)
私は13歳までセブリで育ちました。昭和31年、静岡の施設「I」に引き受けて頂き中学1年に通いながら、小学生の勉強もしてきました。
仲間の子供も何人かおりました。本や学用品などは、田中角栄さんの関係者や三角寛さんが名前を入れたものがいただけました。
それは、とても嬉しかったです。仲間の助け合いが強く有ったです。
頭の優秀な緑さん、伸一さん、歌の番組で合格ばかりのアケちゃん・・・
皆、有名人になりました。お父さん、お母さんからは胸を張って生きて行け。そして・・・
テンバのチカラを世に見せ付けたら、それで良いと教えられてきました。
ユサハリのカヅ歌
カミのみなし・・・ツキの箕なおし・・ミの箕つくり・・・ヨツのさそい・・
イツのおーみ ・・・ムのチカラ・・・ナナツのテンバ・・・
私たちのことをテンバを何故「サンカ」と呼ぶのか、今でも判りません。私たちはユサハリとかテンバといいます。
0537天之御名無主2006/02/09(木)
貴重なお話をお聞かせ頂き、ありがとうございます。
「ユサハリ」「テンパ」という言葉は初めて聞きました。
地方によっても呼び方が違うのでしょうね。
自分たちの事を「セケンシ」と呼ぶという風に何かで読んだ事が
ありますが 山窩(サンカ)と同じように差別的なニュアンスが
あるので本当なのかどうか疑問でした。
お聞きしたい事は山ほどありますが、質問するのは控えておきます。
質問に答える形ではなく、貴兄自身が気が向いた時にまたお話を聞
かせて頂けたら幸いです。
0600テンバ、ユサハリからの独り言2006/02/18(土)
本人です。昭和17年生まれの、お婆さんです。パソコンを覚えたばかりです。
私は「536」は書かせて頂きました。施設の名前は伏せますが、伊豆半島の付根辺りにあります。
後日の記述の有りました「553」の方は、私の名前を語った別のお方です。
どうか、弁明をして頂けます様、お願い致します。
私のことはサンカのフィールド調査で訊ねてこられました1人の研究者に、すでにお話ししてあります。
その方が、私たちのことを仮名で紹介されると思います。
0600テンバ、ユサハリからの独り言2006/02/18(土)
本人です。昭和17年生まれの、お婆さんです。パソコンを覚えたばかりです。
私は「536」は書かせて頂きました。施設の名前は伏せますが、伊豆半島の付根辺りにあります。
後日の記述の有りました「553」の方は、私の名前を語った別のお方です。
どうか、弁明をして頂けます様、お願い致します。
私のことはサンカのフィールド調査で訊ねてこられました1人の研究者に、すでにお話ししてあります。
その方が、私たちのことを仮名で紹介されると思います。
678天之御名無主2006/03/02(木)
古い爺さんの業務日誌「山番順廻帖」見てたら、
「河原者三家族、サンカ者七家族 本日 大井川渡り村もち山へ入る。
駐在へ連絡 明日勧告して 材を刈りした時は山狩りするなり」
昭和6年5月8日 の記述
これも山窩のことでしょうか?
0680天之御名無主2006/03/02(木)
>>678
それはサンカだね。
その頃サンカは警察から警戒してされていたから。
ただ、「河原者」「サンカ者」というのは
あくまで警察(里者)側が言っていたものだから、
どんな基準で二者を区別しているのかわからないね。
単に川にいるサンカの事を「河原者」と言ってる可能性もある。
0636天之御名無主
2006/02/23(木) 16:04:27
何の確証もない勝手な想像ですが・・・。
612さんの《ヤシの意味はもともと薬師 つまり山に入り薬草を取り 里に降り薬を売る これが語源だそうです。》
ってカキコみてふと『富山の薬売り』の人の中にもサンカ系の人が結構いたんじゃないかって想像してみた。
日本の製薬の歴史も富山の薬売りも 元を辿れば修験道の人たちが薬草を採り煎じて携行した事に行き着くらしい。
修験道といえば山岳信仰 山の民であるサンカと接点があっても不思議じゃない。
また修験道と忍者には密接な関係があり(伊賀・甲賀地区にはたくさんの修験道の寺があったらしい)サンカと忍者も
サンカの最高権力者 乱裁道宗(アヤタチミチムネ)と忍者の最高権力者が同一人物だったという話もある。
修験者も 忍者も サンカも異なる集団である事は確かだが人的交流や重複も有ったと思う。いずれにしても確かなのは
三者とも薬草や薬には豊富な知識を持っていた事。そんな人たちの一部がその知識を生かし『薬売り』になったと考えて
もあながち的外れとも言えないと思うんだけど・・・。どうだろう?
0638天之御名無主2006/02/23(木) 17:19:07富山の薬売りと、僕は滋賀~伊吹山の薬草売り(薬草獲り、も)、結構、広く行商してました。
僕のお婆さんの話では、遠い地方のニュース、近くの村の婚姻の話し、もうすぐ葬式のある家・・・
等の情報話しなど、間違いない話しを伝達していたそうです。
これなど、アヤタチ大親分を中心とした連絡網があり、仲間のネットワーク、組織があったんでしょうか?
サンカ・アヤタチ組織=富山の薬売り~面白い見解だと僕は思います。
0640天之御名無主2006/02/23(木) 21:55:35中世まで、多くの山や谷は神域とされムラの禁足地とされていた事が
多く、また猟師や山師達は講を構えており、猟の期間・場所や猟の数
についての指定をしていた。
これは現代でも一部の地域では多くのしきたりが残っており、主にそ
の山の自然体系・食物連鎖を維持・管理する目的があったと、今では
考えられている。
しかし一部のムラや講に属さないサンカと呼ばれる流民は、このいい
つけ・しきたりを乱す事があった為、村民や生産者組織である講や、
支配権力者である武士から弾圧をうける事もあったものと思われる。
農村に残る鬼や山姥の伝説も多くはムラの共同体に従わない彼等下層
流民の類の記録だと分析されている。
0662天之御名無主2006/02/27(月) 21:05:28
当然。それがサンカのゆえんだ。
ただ占有はしないよ。
山は誰のものでもない、という世界観で生きてるから。
だから山(大地のすべて)にある畑も誰のものでもない、
畑にある草・野菜も誰のものでもない、と
勝手に食っちゃって盗っ人呼ばわりされる。
サトモンからすれば間違いなく盗っ人だからね。
0663天之御名無主 おお、正に幻の原始共産制。マルクス・レーニン主義の理想とするものだ。
0664天之御名無主2006/02/27(月) 22:48:07
社会学者の考える原始共産制とはぜんぜん違うと思うけどね。
「共に産する」わけじゃないモン。
要するに野生の獣と同じなわけだ。
畑の作物を食って、地主が「盗っ人!!」と怒っても知っちゃいねー。
社会だの主義だのに縛られることもなく
自分らのおきてにのっとって生きる。
大地が寝床、天が屋根、自然界とわが身のあいだに世界がある。
ああ、すばらしき流浪人生!!
0658天之御名無主2006/02/26(日) 23:16:10
サンカの語源は不明。
「山窩」も正確な発音(歴史的仮名遣いによる発音)だと
「サンクワ」だから語源的には違う、と言うことを後藤興善が言っていた気がする。
漢字は当てにならないと思われ。
個人的には「坂の者」→「坂者」→「さンか者」→「サンカ」だと思っている。
宿無しで川っぺりに住んでいた人々(サンカとは違う)を指して「河原モン」
という言葉も有ったのだし。
0665天之御名無主2006/02/28(火) 00:13:37 冬は沖縄、春と秋は東京、夏は北海道と漂泊するサンカになりたい

