津波や地震の被災者と
原発の被災者は全く別
熊本は前者になるが
原発の賠償金はまず各家庭に無条件で一人月10万
それから土地の被害で一戸建て+庭なら億単位の賠償金がもらえる
実際原発被災者は家族揃って良い家をいわき市や東京に買って遊んで暮らしてる
働かない
これが国のどんぶり勘定の結果な
だから俺は原発被災者には同情しない
近くの農家から井戸水をもらってきてその水で顔を洗い、顔洗い終わった水を再利用し歯を磨きゆすいだら、さらにその水をバケツに貯めておいてトイレを流すのに使った
熊本地震では給水車からもらってきた水を食器洗いやトイレにつかうとか言ってるのを聞いた
余裕あるってのは良いことだなとしみじみ思うよ
地元が西日本豪雨でやられたのだが、
地元にある井戸・湧き水の住所一覧表みたいなページを探し出して、初期の段階でネットで情報拡散した
一箇所だけ紹介するとそこに集中して大渋滞になるので、最初からリストを公開した
お陰で、それぞれの井戸に人が分散したので、多少は混雑したが、いわゆる給水所などの行列よりは
全然マシだったらしい
過去の被災地の教訓などをよく読んでいたのが役立った。みなさんありがとう
あとどうせ物資なんて避難所以外に配ってくれるのは10日以上たってからだし、
近所の人たちで野菜持ち寄って外で火焚いて豚汁とか作ってた。
裸火があぶないとか環境とか知ったこっちゃない。生きるのが先決だ、薪は家が倒壊した瓦礫から調達したし、鍋も流れてきた物だし、
たまに流れ残った真空パックの干物を具にしたり、
一部犯罪かも知れないが、そうやって生きたんだよ。
それは犯罪ではなく緊急避難だ。
あんな生きるか死ぬかの状態で、犯罪なんて言ってるのがおかしいと思ってたよ。壊れた車からガソリン抜いて使える車に入れたっていいじゃない。赤ちゃんのミルクをお店から持っていったっていいじゃない。
本当にそれ。生きるか死ぬかの状態で、犯罪扱いなんてないって思ってた。
あと、ボランティアは受け入れ態勢もないのに、行かないほうがいい。
子供達が走ったり飛んだり遊んでドスンドスンと凄い振動で
年寄が可哀想だった。心身共に苦痛そうだった。
しかし親は微笑ましく子供を見ていた。
子供もストレスが溜まっているのは分かるし、親も元気な子供を見てるのは安心だと思う。
しかし避難所内ではダメだ。周りへの気遣いは絶対だ。
もう疲れ切ってヨレヨレに爺さんは昼も休んでいたいんだよ。
避難所では互いの思いやりが大切。
ウチの嫁が当時、非難した場所はそうだったって。
ペット同士が干渉しあって騒ぎになるから難しいとか言ってなかったか?
老人と子供問題は、これこそ棲みわけ可能。
それはイヌ畜生だろ。
散歩ですれちがっただけで、ギャンギャンうぜえイヌはけっこういるが、
猫はそんなことはないよ。
>>8の意見は名案だぜ。
毎日ゴミを集めて片付けトイレを掃除し炊き出しの手伝いをする真面目な人が居るかと思えば、
昼間っからどこから調達したのか缶ビールを飲んでゴミは山積みというクズも少なからず居る
一番頭に来たのは、突然ボロセダンで押し掛けたボランティアが駐車場の車にドアパンしまくっていった事
あんま被害状況とか調べてばかりだと気が滅入る。
温かい声援もあるが、心無い書き込みも多い。
ネガティブにならないように動画サイトの面白動画とか観るといい。
大変な状況だからこそ笑うことが大事。
無理にでも笑おう。
風呂にも入れない、トイレも流せないのは精神的にきつかった。
知人は、ガスはプロパンで、電気止まったが、家が井戸水使用で、ポンプが使えず人力で汲んだそうだが、
水は使えたそうだ。
それを聞いて「うらやましい。」と言ったら、
「テレビも見れないし、情報手に入らず、すごく不安だった。」と涙目でキレられた。
被災者同士でも不幸自慢的な話は控えたほうがいいと思う。
何かの役に立ちたいって思ってもらうのはいいが親切の押し付けは勘弁
そういや除染に入った作業員に休憩時間に、うちの庭で今朝採れた野菜だって婆さんが出してくれたって話思い出した
あの状況で現金は全く意味をなさなかったからな
水道と電気はなかなか復旧しないけどガスはすぐ使えたからこのやり方で空腹はしのいでいたよ。水は汲んでこないといけないけど、米を食べると満腹感がやっぱり違う
関西から仙台市ガスに応援に来てたが順番待ちで結局2ヶ月間ガスストップ。風呂に入れなかった。
懐中電灯も電池も携帯充電器も無く灯油もないので、ホッカイロを体につけて、生協から貰ったろうそくに
チャッカマンで火をつけて厚着して夕方になったらベットの中で月明かりで電池のラジオで生活情報を聞いていた。
郊外の団地の自宅被災者だから、炊き出しも政府援助も無く生協がタダで配ったトイレットペーパー1個と缶詰1個と携帯テッシュを貰っただけ。
毎日食料買出しに行ってた。
小学校で水を配給してたが、朝10時に並んで昼の3時にやっとペットボトル2個の制限付きで貰った。トイレはウォシュレットも使えず風呂の残り水で流した。
吹雪の中を3時間並んでパンやトイレットペーパーやウェットテッシュなどを買った。
生協は品物がないので1人5個までだった。何回も並んで買う人がいた。
まるで北朝鮮か物資不足の旧ソ連みたいだった。ガソリンも灯油もなくとにかく腹が減って寒かった。
お金があっても商品が街にない。停電なので自動販売機から飲み物を取り出せない。
ガソリンスタンドで車が長い行列を作って灯油を買ってたが、鍵をかけてトイレや食事しにその場を離れたら、車のタイヤを錐で穴をあけて
パンクさせる外道が出没して皆迷惑した。沿岸部の被災した工場から缶詰やいろいろ被災民が盗んだのは熊本と同じ。
買出しに列に何時間も並んでいたら、割れた窓ガラスから泥棒が入ってパソコンから何から盗まれた人の話を聞いた。
強盗団が跋扈してたらしい。
震災で人心が荒れ、公団の一階に生協から配達してもらった灯油が盗まれ警察に相談に行った。灯油は生協が弁償してくれた。
灯油缶は行方不明。
風呂に入れないのでパーマ屋で洗髪をしてもらったが、2000円を取るボッタくり美容院や、商品を高く売り付けるぼったくり
ドラックストアや食料品があった。
銭湯は整理券を配って友人が手に入れ4時間待ちで数十分入浴してきたが、地下鉄は止まっていてバスも間引き運転で
2時間くらい歩いて帰宅したが風邪を引いたらしい。
皆風呂に入ってないけど普通に仕事に歩いて通勤していた。
3月で雪が降るくらい寒かったので、匂いも感じなかった。熊本の避難所ではノロウイルスが発生して大騒ぎしてるが
そういうことはなかった。
公団URは昭和48年築造だが壁が分厚く頑丈で、都市整備公団が無料で大規模補修をしてそのまま暮せたが
道を挟んだ昭和30~40年築造の市営アパート30棟は、貧弱な作りなので住民は新しい市営に強制移住させられ
危ないのですべて取り壊し広大な更地になってる。古いビルもすべて取り壊し。
病院や調剤薬局やドラックストアや個人商店はすべて撤退して市民生活が不便になった。買い物難民だ。
お風呂は灯油ボイラー
水は井戸水
飯の煮炊きはプロパンガス
一番困ったのはとにかく食料とガソリンが手に入らない事だった
客が来なくなった温泉旅館が避難者を受け入れてたけど、今の熊本は違うね
全壊や半壊で住めなくなった人達は再建にも時間がかかるんだし、仮設もまだなんだから、観光客呼び込む前に旅館借り上げすればいいのにと思う
余震はかなり長く続いたしMも大きかったけど、直下じゃなかったから屋内避難できたってことだけど、梅雨が近いし、本気で県が考えてほしいな
屋根瓦と漆喰壁補修だけで三百万かかった
支援はあてにならないから、自力再建の力をつけるしかない
願わくば再建困難者への救済が十分にあることを
家財は倒れただけで損害は食器類程度だったから申請しなかった
地震保険未加入だしね
なお、火災保険に地震保険を追加する場合、修繕終了済みの証明がないと加入できないというのも被災後に知った
瓦が足りないのと職人不足で、一年半待った
その間、隣人や大工さんに張ってもらってたブルーシートは風雨に耐えられず張り替え数回
それから、怪しげな屋根直し訪問も出没したから、これも要注意です
昼飯も食い終わって、俺、俺の家族、友人の家族の計6人はだらだらしてた。
しかし、大きな家具をあちこちに置いていたため、本震の瞬間一気に倒れ、皿が飛び散った。
酷い地震。しかも外に出たら津波が襲う。友人の家族を避難させた俺は、今すぐ高台へ逃げるため車へ飛び込んだ。
正直、死を覚悟した。怖い。怖すぎてたまらなかった。
大きな家具をあまり置かないこと、すぐに避難する事を大事にした。
でも、俺はもう流石にこういうのは来ないと思って、住んでいる熊本へ…
しかし…白石で経験した5年後…
宮城県白石市 震度6弱
熊本県熊本市中央区 震度6強
有名なのはボランティアがせめてもの娯楽にとオモチャや本を集めて持って行ったら
「DS寄越せ!」「モンハン寄越せ!」という声が上がった事かな
因みに子供じゃなくて親から
15: 名無しさん@おーぷん 2016/01/19(火)12:38:08 ID:lDh
助成金の判定がガバガバだったから皆とりあえず申請して貰ってた
県内の実家に戻っただけでも避難扱い
21: 名無しさん@おーぷん 2016/01/19(火)12:46:14 ID:wGA
避難所で自衛隊の人達が雑巾掛けしていたら
そこで避難生活してるらしいオバハンが腕組みして
「もっと綺麗にふいて下さい!」って指図してるのをテレビで観た
そんな腕組みして仁王立ちする元気があんなら
自分たちが生活している場所は自分で掃除しろやと思ったわ
49: 名無しさん@おーぷん 2016/01/19(火)13:09:35 ID:zHh
俺は被災者様だけど、ぶっちゃけ被災後の方が色々捗ったよ
引っ越し資金も出来たし関東に0円で移住できたし、暫くの間家賃とかもタダだったし
家具家電まで貰えたし転職先の方が給料高いし俺個人としては万々歳の地震だった
38: ■忍法帖【Lv=7,テンタクルス,dQ0】 2016/01/19(火)13:03:04 ID:AMq
ボランティアに行った人が傲慢な人たちに悪口言われまくって、
こいつらが変わりにシねばよかったのにって話しは震災のころ聞いたな。
それな
「自主避難者」ってのはいわき市民にも適応されてて、本当判定が激甘だから
6年間東京に出てきて家賃無料、水道代タダ
知り合いは親戚みんな持ち家無しだから
全員こぞって東京に出てタダでマンション暮らし
賃金もいわき市より良い
こんな馬鹿な制度が8年間
来年の3月まで続くらしいよ
殆どの「原発被災者」は得してる
合計21972人になり 明治三陸沖地震の死者行方不明者21959人
を超えて日本災害史上 関東大震災に次ぐ2番目の大災害となった
携帯 1週間
電気 無害だが体育館の暖房器具が全て灯油だったため、暖を取れない
プロパンガス 2週間
水 3週間
ガソリンスタンド2週間
コンビニ 物が無い状態で営業
スーパー 一週間で一日だけ開いてまた一週間閉まる
清潔なんて気にする余裕もなくて、とにかく食料に困った
大規模災害で肝心なのは避難所だと思う
避難所の格差について書かせてくれ
自治体では災害に備えて避難所を用意している
学校や公民館なんかが多いから、調べておくといい
大事なのは、そこが指定避難所かどうかということ
指定避難所には、物資が優先的に届き自衛隊の風呂が来る
それ以外の避難所は、自治体の混乱が収まるまで放置されるから気をつけろ
満員で入れない時は指定避難所近くに避難しておき、物資だけもらいに行けばいい
一番良いのは被災地を脱出することだけど、道の状況とガソリン次第で危険でもある
携帯のワンセグはバッテリーが心配で
津波の映像も見ていたがその時はピンとこなかった
ラジオを大音量で流しっぱなしにしていた人がいて
周りに人垣が出来ていたね
ラジオは今も持ち歩いている
今なら3万円で買えるかな
当時はエコテストだのラデックスだの話題になってたが
今なら5千円のエステーの奴だけでも買っといた方がいいよ
子どもがいるならヨウソ剤も用意しておこう
福島では三春町以外配布しなかったがあまり問題にされなかった
薬局が良いがアマゾンでも買える
ANAとJALの会員にもなっておこう
両親を東京へ脱出させるのに福島空港から名古屋空港経由だった
チケットはとにかく暇さえあれば空席を探すしかなかったからね
あんな状況でもタクシーは使えたんだよね
放送はアンテナから電波を出せば、テレビやラジオのような端末が
1000万台あろうが1億台あろうが、全ての端末が平等に情報を受け取る事が出来る
しかし、radikoは端末1台1台がサーバに接続しに行く為、要求が多すぎるとサーバがダウンする
前々から予想はしていたが、案の定震災直後はradikoは完全に沈黙
「いつもラジオ持ち歩いているのに、何でこんな日に限って忘れたんだ俺のバカ!」って本気で後悔したわ
オレの東日本大震災の体験です。
オレは、生まれも育ちもフカヒレが有名な三陸の町に住んでる。
7年前の3月11日は仕事で営業の外周りだった。
オレは当時23歳で2歳年上の嫁と1歳になったばかりの娘がいた。
いつものように朝の8時に家を出ようとした時、嫁が今日は何か落ち着かないから
仕事気おつけて行ってきてねと見送られた。
今は、その時の落ち着かないと言われたことが、この後オレ達家族に降りかかった震災
のことだったのかと思って仕方がない。
オレは午後2時からお昼休憩をとり、約40分後に車を走らせ、
間もなく、ハンドルを取られる程の激しい揺れに襲われた。
最初は地震だと気付かず、タイヤがパンクしたかと思った。
しかし外を見回すと、至る所の建物の中から人が慌てて飛び出してきている。
その光景を見て、地震だと気づき車から外へ出た。
車に捕まってないと立ってられないほどの激しい揺れが10分以上も物凄い地鳴りと
共に起こっていた。
正直、隕石や核兵器が使われ地球が崩壊するんではないかと恐怖を覚えた程だった。
その後、町の防災無線から6メートルの津波が押し寄せる可能性があるので、
落ち着いて高台へ避難してくださいとのアナウンスが流れた。
自分は海沿いの道路を走っていたので、流石に6メートルは助からない
と思い、高台へ避難しようとしたが、道端でおばあさんが腰を抜かして座っていた。
このままではこのおばあさんが危ないと思い、車へおばあさんを乗せて
一緒に高台へ避難した。
その後、高台から海を見てみると、明らかに沖の方に海水が引いていて
沖から大きな黒波が見えた。
高台の下には地震に戸惑い、避難ままならない人達が沢山いた。
オレは津波を見て、とっさに下の人達を避難呼びかけないといけないと思ってしまい、
高台から下へ駆けてしまった。声がけを始めようとした瞬間、津波が堤防を越え、
逃げ惑う人達と自分を巻き込んだ。
オレは飲み込まれた瞬間で意識を失った。
次に意識を取り戻したのは病院のベッドの上だった。
津波に飲み込まれたが、運良く対岸の岸近くを漂ってたらしく、無事だった人達に
助けてもらっていた。漂っていた際、重油まみれの海が津波火災を起こしていたのだが、
その熱気でオレの喉の食道や口内は火傷を負っていた。
意識を失ったまま助けてもらった人達に介抱してもらい、
震災の翌日に、自衛隊のヘリコプターで大学病院に搬送されて、その後意識を
取り戻した。
怪我の状況によっては、声を出せなくなる可能性があると言われたが、懸命の治療を
してもらい、声を出せるように回復した。
意識を取り戻してからは、家族の安否が気になって仕方がなかった。
嫁の両親は無事だったのだが、嫁と娘が行方不明になっていると連絡を受けて
絶望感でいっぱいだった。
病院のテレビで全国の被災状況が明らかになっていくたびに、胸をえぐられる気持ちに
なっていた。
三日月後、嫁と娘の亡骸が発見された。
家族を守れなかったことが、悔しくて苦しくてしょうがなかった。
家族を失い、気力を失って数年過ごしていたが
嫁の妹に支えられ、気力を取り戻すことができた。
亡くなった嫁と娘の分もしっかり生きていきことを誓い、
一昨年、嫁の妹と結婚した。
さらに、昨年の3月11日に男の子が誕生した。
嫁と娘の命日に生まれてきた息子は、嫁と娘の生まれかわりだとしか思えない。
その息子も間もなく1歳になります。
長々、自分の震災体験を書き込みすみませんでした。
時系列や位置関係が分からないのですが
御家族を助けに行くという選択肢は無かったのですか?
自分でも読み返しましたが、分かりにく
かったですね。
申し訳ございません。
時系列と位置関係を改めて簡単に
書き込みます。
2011年3月11日
午後2時40分頃
休憩を終え、町の湾に面している道路を車で走行しだした。(自宅から15キロ程離れている地域)
午後2時46分頃
車のハンドルを大きくとられる感覚があり、
パンクだと思ったので車を止めた。(まわりの
工場や店等から次々と人が外に飛び出す状況を見て、地震だと気づく)
午後3時頃
大きな揺れが収まり、間もなく大津波警報の
防災無線が鳴り響く。(6メートルの警報が
発令された。自分が地震に遭遇した場所は
海抜1メートル程。海との距離は100メートル程)
午後3時5分頃
嫁にスマホから電話しようとしたが、繋がらない。地震の被害が心配でかけようとした。
地震にさえ耐えてくれていれば、津波は問題ないと思えていた。(自宅は海から3キロ離れていて、海抜も10メートル以上 まわりはスギなどの木に囲まれていて、海は見えない地域だった)
午後3時10分頃
地面に腰を抜かして座り込んでいるおばあさんを見つけ、自分の車へ誘導。
直ちに近くの教会がある高台へ車を走らせ避難開始。(高台は海抜30メートル程あり、町中を見渡せる広い駐車場がある。そこの近くに山があり、お笑いコンビのサンドウィッチマンがテレビのロケ中に地震に遭ったが、その山に避難し難を逃れていた)
午後3時20分頃
高台の避難先に到着し、おばあさんをおろす。
オレは海の沖を見て驚愕した。(避難中は大渋滞が発生していたが、自分達の進路は大手の運送会社の人達が身を呈して交通整理を行っていて、同じ避難先の人達をスムーズに誘導してくれいた)
午後3時20分過ぎ
ここから時間がわからない
町中の人達は建物に遮られ津波が来ていることに気づいていない。
自分は家族のことも考えず、高台の下で混乱して逃げ遅れている人達に避難を呼び掛けに駆け出した。無意識だった。(非常に混乱していて、逃げ惑う車にひかれてしまう人達もいた。)
時間不明
呼び掛けしていたら、津波が自分の目の前にきていた。一瞬で呑み込まれ記憶がない。
夜になり、海が津波火災で燃え盛っていたらしい。その海を流され対岸で運良く救助された。
(その日着ていたダウンジャケットが浮きになっていたらしい)
翌日
ほとんど記憶がないが、陸上自衛隊のヘリコプターで岩手の大学病院に搬送され治療を受けた。
その後
5月に退院。
自分の親に連れられ、流失した自宅の跡地を見て
絶望した。
妻と娘が最悪の状態で見つかる。
以上ですね。
質問あればまた答えます。
辛い経験をお話頂きありがとうございました
山の上の避難所の学校ではカップラーメンや乾パンの配布などがあったが、
おれんとこはどっかの長が、
「避難所で差が出るとまずい」
という理由で物資配給を中止、
三日で食パン半分、きゅうり一本、氷砂糖二個だったわ。
毛布の配給も中止されてたわ
各避難所がまさに何日も空腹や寒さで苦しんでいる時、どこにやればいいか分からないからと支援物資の山を築き供給をストップさせていた宮城県の事かな?
無責任な態度でインタビューを受けている公務員のニュースをみて本当に憤りを感じた
仕事で岩手の県央にいて、16時頃どうして上空防災ヘリ飛んでるんだよ、早く沿岸行けよって思った。
数年後、書籍で気流のため沿岸行きたくても行けなかったんだ、ってのがわかった。
兎に角県央ですら色々ありすぎた。
震災当時は独身で職場の病院で被災。
自宅マンションで猫を飼っていたので、職場での待機命令を無視(職場長には許可はもらった)して一時帰宅して猫の無事を確認。押入の隅で震えていた。
壊れた踏切で迷子の犬に遭遇。どうしたの?と話しかけると犬はついてくる。自宅には怯えた飼い猫しかいないし、職場はペットを連れていけない環境。結局犬は途中で私の側から離れていった。
震災から一週間は職場に泊まり込んで仕事。
支援物資がたくさん届いていても、私たちしたっぱ職員の手元には届かなかったな。
震災翌日くらいから炊き出しのお握りが手にはいるようになって、食べれるってしあわせと思った。
お風呂も10日位はいれず、白衣もずっときたままで真っ黒になり、それでも目の前のことを必死でこなす毎日。
でも当時は独身で何の制約もなかったから頑張れたけど、小さいこどもがいたり、津波で行方不明の家族がいるなかで、黙々と仕事をするスタッフがいたり、周囲の人々の苦悩はどれだけなんだろうと思うとね。私は恵まれていたと思う。
津波の被害が甚大だと知ったのは震災翌日か、その翌日か?
テレビも見れないし、なんの情報もない。
ただ、運ばれてくる人々が海草にまみれて低体温症になっているので、津波がきた事実は知っていた。
陸の孤島というか、なんの情報も得られないまま、日々が過ぎていく。
職場は病院だけど、検査も出来ないし、道は寸断されて、患者さんの転送すらままならない。
普段であれば助けられた命も、結局検査ができないから確定診断できず、治療もできず、ただ見守るしか出来なかった。
食事ができない患者さんへの点滴も、重傷者治療のために減らすしかなかった。
トリアージだからしょうがないけど、治療に優先順位がついて、年齢が若くても助けられない状態の人はそのままだし、どんなにいたがってても、軽症なら何時間も待機してもらうしかないし。
もうあんな思いはしたくない。
震災当日に踏み切りで遭遇した迷子の犬は、震災から半年後に、同じ踏み切りで飼い主さんと散歩中に再開。
わんこが私を見てしっぽを振って近付いてくれたので、飼い主さんに事情を説明。
震災で自宅の窓が開いてしまいそこからびっくりして脱走。震災の日の夜には見つけて家で過ごしてたと言われホッとした。
インフラと家がダメで、車のみ生きてた場合、
避難所の体育館がある学校の校庭とかに車をとめて、
体育館にスペースを確保、かつ車の二重生活はゆるされる?
発災当初の避難所が混み合っている時はあまり良くないかもしれないけど
プライバシーも必要だし
ある程度落ち着いて来たら二重生活も大丈夫だろう
集団生活のルールなり役割分担などもある程度は担いましょう
暗くなって雪も降って、動いてないとやばいかもって状況だったから皆ウロウロしてたんだけど、誰かが小さなお堂の中にその日作られたばかりと思われる小さなおにぎりを見つけた
その小さなおにぎりを、数十人で分けて食べたよ
お腹すいてたわけじゃないけど、食べなきゃだめだ!死なない限りは生きるんだ!って皆で食べた
今なんか買いしめがおきてるとかで、思い出したので書いてみた
冬で良かったね
夏なら集団食中毒
https://itest.5ch.net/rio2016/test/read.cgi/lifeline/1461081425/

