ビッグ・アップル
http://www.mctv.ne.jp/~bigapple/
ページトップ:白骨の山 全身ボロボロ少女(大村病院)
Victim0 :こっち見んな
Victim1 :耳から肩ケロイド
Victim2 :立膝両手上げ
Victim3 :顔面~大腿部前面火傷の男性
Victim4 :顔面と腕火傷ひび割れ
Victim5 :gisei34.gifと同じ(腹巻以外全部熱傷)
Victim6 :背中焦げてひび割れの女性
Victim7 :畳少女
Victim8 :鼻損失
Victim9 :顔面損傷下顎部損失で舌出し
Victim10 :治療中の頭部火傷から膿
Victim11 :背中~後頭部火傷うつぶせ
Victim12 :西練兵場の兵士死体
Victim13 :顔面火傷の動員女子学徒・両手上げ
Victim14 :口元から首筋までケロイド
Victim15 :背中全面火傷の少年(カラー)
http://hpmmuseum.jp/?lang=jpn
改装後の常設展示
http://hpmmuseum.jp/modules/exhibition/index.php?action=FacilityView&facility_id=1&lang=jpn
平和データベース
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/database/
旧バーチャル・ミュージアムより
「主な展示を見る」
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/vit_exh.html
「キッズ平和ステーションヒロシマ」
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/kids/index.html
長崎原爆資料館
http://nagasakipeace.jp/
所蔵品検索
http://www.city-nagasaki-a-bomb-museum-db.jp/index.php
以下2サイトは閲覧の際、グーグル・アースプラグインのダウンロードが必要
(※ダウンロードページ http://www.google.co.jp/intl/ja/earth/download/ge/
下記サイト内からもダウンロード可。無料)
ヒロシマ・アーカイブ
http://hiroshima.mapping.jp/
ナガサキ・アーカイブ
http://nagasaki.mapping.jp/
http://www.peace-museum.org/
広島原爆写真館
http://www.aeras.jp/abomb/
世界遺産『原爆ドーム』を24時間ライブ中継!!
http://www.mix-net.co.jp/live/live.html
学校HP内の記録および個人の手記など
http://www.urban.ne.jp/home/kibochan/miyakou/cg.htm
http://www.coara.or.jp/~ryoji/abomb/abombindex.html
原爆模擬弾パンプキン
原爆投下の練習として日本各地に50発も落とされたらしい
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-mogi.htm
長崎新聞HP内の証言
http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/hibaku/index.html
Q:原爆で地面に人影が焼きつけられたというのは本当ですか?
A:「人影が焼き付けられた」と言われている石は旧日本銀行広島支店の
正面玄関石段(花崗岩)に残っていました。
現在、石段部分は保存され 広島の原爆資料館に展示されています。
ちなみに影を残した女性は投下数分前に現場を通った知人(生存)に目撃され、
ほぼ氏名が確認されています。
(この人は遺体を搬送されており、蒸発したわけではない)
また 最近の学術調査で、影の成分が石の成分変化でなく、炭素系物質である
ことが確認され、「影」ではなく人体の溶融物ではないかと考えられています。
Q:原爆で人は蒸発するのですか?
A:広島・長崎型の初期型核爆弾ではしません。
ただし爆心直下で外に出ていた人は致死量の放射線を浴び
即死する可能性が極めて高いです。
Q:爆心直下にいたのに命拾いした人がいるというのは本当ですか?
A:爆心地(島病院)の元安川をはさんだ対岸にある燃料会館
(現・平和公園レストハウス)に勤務していた野村英三さん(当時47)は
被爆当日の朝出勤し、原爆投下時にはたまたま書類を取りに
地下室に下りていて熱線や爆風を直接浴びることなく命拾いしました。
地下室は非公開ですが現在も保存されています。
8月5日 00:37 天候観測機3機離陸
8月6日 01:45 エノラ・ゲイ離陸
02:00 機内にて爆弾最終装填始まる
02:15 同作業終了
04:55 硫黄島上空到着
05:05 グレートアーチスト、ネセサリーイーブル合流、日本へ
07:00 機内にて乗員朝食
07:09 警戒警報発令
07:15 ストレートフラッシュより広島市上空の天候報告受信、勧告、主目標を爆撃せよ
07:31 同警戒警報解除
08:06 松永監視所 敵大型機2機、西北進中
08:09 同報告、3機に訂正
08:13 エノラ・ゲイ、西条上空通過、中国軍管区司令部「0813ケハ」命令
08:14 エノラ・ゲイ、目標、相生橋を捉える
08:15 原爆投下、離脱 グレートアーチスト計測器3個投下離脱、中国管区司令部警戒警報発令
08:16 リトルボーイ、地上570mで爆弾炸裂。投下高度9473m
12:00 乗員機内にて昼食
13:58 エノラ・ゲイ、ノースフィールドに帰投
18:00 乗員ノースフィールドにて夕食
(距離は爆心地からのもの)
(死亡率;高度=100~50%、中度=50~10%、軽度=10~0%)
屋外(開放)の場合;
~1km 1~2km 2km~
▼外傷 高度 軽度
▼熱傷 高度 中度 軽度
▼放射線傷害 高度 中度 軽度
屋外(陰)の場合;
~2km
▼外傷 軽度
▼熱傷 軽度
▼放射線傷害 中度(~1.5km) 軽度(1.5~3km)
木造家屋内の場合;
~2km 2~4km 4~6km
▼外傷 高度 中度 軽度
▼熱傷 軽度
▼放射線傷害 中度(~1.5km) 軽度(1.5~3km)
コンクリート建築物内の場合;
~2km
▼外傷 軽度
▼熱傷 軽度
▼放射線傷害 中度(~0.5km) 軽度(0.5~1.0km)
以上の事から分かる通り、初期型原爆の一次被害はそれほど大きくない。
原爆がものすごい威力で人が一瞬にして蒸発するとか、誤解を受けているのは
戦後、一部の半核団体等により、壊滅範囲や死亡者数が誇張されていた為
(例えば死亡者数約30万人、実際はその半分程度)
・原爆投下には事前予告があり、限られた人だけが知っていた。
・爆心地では原爆の熱線で一瞬にして蒸発した(全身が炭化して灰になった)人がいる(FAQ参照)。
・原爆投下直後の広島市街中心部を写したカラー動画(カラー写真)が存在する。
・エノラゲイ搭乗員は腕時計を携帯していなかった。
・原爆投下直後、救援を求める少女の声がラジオに流れた。
・原爆の熱線で人の皮膚がドロドロと溶ける
・かつて原爆資料館に展示されていた被爆者マネキンには目玉が飛び出しているものが存在した。
・資料館に展示されていた被爆馬の剥製標本は悪臭を発していた。
・原爆の放射線は健康によい。
原爆投下30分前に軍の偉い人の家族が広島に疎外した
原爆投下の時だけ空襲警報を鳴らさなかった、まるで原爆の実験に参加させられているようだった
敗戦後、日本を建て直すために戦艦に隠して沈めておいた金塊20トンが消えていた
内通者がいるのはまるわかりだけどな、証拠がないから都市伝説になっている
誰が内通者かはわかっているけど、大物すぎて誰も言えんよな
http://www.coara.or.jp/~ryoji/abomb/abombindex.html
http://www.urban.ne.jp/home/kibochan/miyakou/cg.htm
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/vit_ex/vit_ex3.html
> 広島の被爆に関する相変わらずの大本営発表に憤慨し、広島の実情を伝え
> なければと被爆した身体で旧知の長崎市長を頼って9日の朝に長崎に到着
> し、そこで再被爆した、広島の地方新聞社の社長だか何かの役職について
> いたという人物がいなかったっけ?
> 別人かも知れないけど、
> 昔、二重被爆した人を広島のローカルニュースで見た。
> そのときは無傷だったけど、昭和30年に職場で倒れて以来、寝たきり。
> 天井から撮り下ろすようなカメラアングルだった。
> 奥さんが平和公園で働いていた。
http://www.bekkoame.ne.jp/~hujino/no26/26yamasaki.html
の冒頭
> ナース・キャップは、わたしの宝物
> 二重被爆元看護婦の車中談 山崎 優
> 1996年4月2日夕方。JR芸備線の列車内。「芸備線を走ると、あの日の事を思い出すんよ」。列車が広島駅を
> 発車した途端、偶々同席した郷土史会で顔見知りの婦人が呟いた。この呟きが私の心にひっかかった。
> 「それでーーー」と、水を向けた。婦人は堰を切ったように語り始めた。話しは、私が下車する迄のまる一時間に及んだ。
> 話しを総合すると、この婦人は昭和十九年から二十年の敗戦後にかけて、日赤の看護婦として長崎県の大村海軍
> 病院て勤務した。その間に出張中の広島で被爆。帰任した大村海軍病院で長崎の被爆者の救護活動に従事した。
> いわゆる二重被爆と言う数奇にして、過酷な体験の持ち主だったのだ。
千羽鶴のサダコさんのサイト内の↑の
中央付近に眼球が飛び出た写真がある
世界遺産『原爆ドーム』を24時間ライブ中継!!
http://www.mix-net.co.jp/live/live.html
http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/hibaku/index.html
長崎新聞の被爆者体験談
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/database/
広島平和データベース
8月6日01:45 エノラ・ゲイ離陸
02:00 爆弾最終装填始まる
02:15 同作業終了
04:55 硫黄島上空到着
05:05 グレートアーチスト、ネセサリーイーブル合流、日本へ
07:00 機内にて乗員朝食
07:09 警戒警報発令
07:15 ストレートフラッシュより広島市上空の天候報告受信、勧告、主目標を爆撃せよ
07:31 同警戒警報解除
08:06 松永監視所 敵大型機2機、西北進中
08:09 同報告、3機に訂正
08:13 エノラ・ゲイ、西条上空通過、中国軍管区司令部「0813ケハ」命令
08:14 エノラ・ゲイ、目標、相生橋を捉える
08:15 原爆投下、離脱 グレートアーチスト計測器3個投下離脱、中国管区司令部警戒警報発令
08:16 リトルボーイ、地上570mで爆弾炸裂。投下高度9473m
12:00 乗員機内にて昼食
13:58 エノラ・ゲイ、ノースフィールドに帰投
18:00 乗員ノースフィールドにて夕食
(距離は爆心地からのもの)
(死亡率;高度=100~50%、中度=50~10%、軽度=10~0%)
屋外(開放)の場合;
~1km 1~2km 2km~
▼外傷 高度 軽度
▼熱傷 高度 中度 軽度
▼放射線傷害 高度 中度 軽度
屋外(陰)の場合;
~2km
▼外傷 軽度
▼熱傷 軽度
▼放射線傷害 中度(~1.5km) 軽度(1.5~3km)
木造家屋内の場合;
~2km 2~4km 4~6km
▼外傷 高度 中度 軽度
▼熱傷 軽度
▼放射線傷害 中度(~1.5km) 軽度(1.5~3km)
コンクリート建築物内の場合;
~2km
▼外傷 軽度
▼熱傷 軽度
▼放射線傷害 中度(~0.5km) 軽度(0.5~1.0km)
なんでも、防空壕、屋内に入っていた市民をひとりでも多く屋外に出して、威力を高める
ためだったとか。
この話が、仮に事実だったとしても、その落下傘を眼にした市民は皆、死んでいる。
広島・長崎の原爆の正当性を、いくら米国人が主張したとしても、その後半世紀以上
たっても、実戦使用された例はひとつもない。(朝鮮戦争で使用しようとしたマッカーサー
はトルーマン大統領に解任された)米国人も倫理的な問題を感じているからだろう。
その意味で、HIROSHIMA,NAGASAKIの尊い犠牲は今も世界の遺産なのである。
http://www.exploratorium.edu/nagasaki/mainn.html
[内容]
表紙→英文→燃える街を背に歩く2人→おにぎりを持つ親子→
撮影者の言葉→焼け残った鳥居→焼け跡。中央に遺体→焼け跡→
焼けた馬車と被爆した馬→工場→遺体→防空壕にいて助かった少女→
火傷した弟を背負う少年→撮影者の言葉→焼死体の傍で立ち尽くす少女→
黒焦げの焼死体→撮影者の言葉→遺体?を運ぶ人達→撮影者の言葉→
遺体数体と怪我人。それをスケッチする画家→その画家がスケッチした絵→
横たわる被爆者、水を飲む女性、座る男性→怪我人の治療をする看護婦→
火傷を負った乳飲み子と、呆然とする母親→撮影者の言葉→表紙に戻る
凄い・・・
http://www-sdc.med.nagasaki-u.ac.jp/n50/hakui/hakui-sjis.html
真っ黒に焼かれながら懐に子供を庇って死んでいた猿の話は特に生々しく恐ろしかった。
祖母が亡くなった後に、祖母がに 姪を探して原爆投下翌日の市内に入ったということを知った。
この世の地獄は話すには辛すぎたのだと思う。
しかし心にしまうには傷が深すぎて、誰かに言わずにはいられなかったのだろう。
普段陽気な祖母が最後まで語れなかった原爆。
父方の祖母は産業奨励館の真裏で被曝し、幼い子の将来を案じながら原爆症で亡くなった。
どうか皆安らかに眠ってほしい。
原爆投下の時の、スローになりながら目玉が飛び出て消し墨になっていくのが滅茶苦茶怖かった。
ホラー映画はみても全然平気だがあれだけは駄目。
でもまだ見られるレベルなんだよな
原作者はあれでも甘口と言ってるし被爆者はこんなものじゃなかったなんて言っている
実写版でアニメやマンガが真っ青になるくらいのを放映して是非お茶の間を凍りつかせてほしいな
視覚と聴覚だけじゃなくて、実際は臭覚とか触覚とか色んな感覚を伴うから
ほんと体に刻まれるだろうな
まだかろうじて生きてる人はな。
爆発直下で亡くなった人は真っ黒焦げの人形みたいで
まだ見られる。
山端写真の爆心地写真なんてそう。
描写として正しくないんだよね。
まず熱戦で焼かれて、その後爆風がくる。
目玉が飛び出すのは、このとき。
ターミネーター2の描写が今のところ一番正確。
兵隊の人は親切な人が多いけど、民間人の殺されている人は恨みつらみしかないから手に負えない
原爆も落とされるまではみんなBちゃんBちゃんって言っていたのに本当に騙し殺しされたようなものだから
数百年程度ではこの恨みは消えないだろうね
航空飛行隊は原爆投下日は休みになっていた
アメリカの捕虜はなぜ広島に攻撃をしないのか尋問すると広島にはアメリカの貴婦人が住んでいるから攻撃はできないと言っていたらしい
その結果は日本人は広島に疎開した
軍や政府の家族などもみんなあの原爆で殺されているんだよな
安全だと思ったら、貴婦人も嘘で
たんに油断するの待ってただけとか
影に入るだけで防げるような原爆なんだし、防空壕に入られたら意味ないからね
あの人たちは死んでも死にきれないだろね
しかも家族も全て失って戦意喪失する日本軍人の怨みもいっそう増したのだろうね
上級国民は事前に避難してたことがわかってる
更にそれらをハメた最上位みたいな連中もいるんだよな
沈めた戦艦の中に隠しておいた金塊も根こそぎ盗まれていたんだよ
そのおかげで戦後日本の復興が遅れた
まあ上には上がいるんだよな
阪神淡路大震災 社会党の本拠地
東北大震災 民主小沢の本拠地
それらの被害者に政治家は一人もいないんだぜ
親戚も含めて地震当日は余所に旅行中なんだよな、笑えるだろ
いつもはいるのに
そしたらとっくに盗まれていた
10年ぐらい前にNHKプレミアで放送してたな
餓死寸前と思われる子供たちの写真が大量に残されていたな
時々本当の事をTVでやるんだよ
映像の世紀とか言う番組でも衝撃の映像がたくさん観れた
バタフライエフェクトじゃないほうね
越智さんは空襲の激化に伴い20年春広島市皆実町の家宅を人に貸し
山口県に疎開していた。月1回家賃の徴収と銀行の利子の受取りの為
広島へ行く習慣で、被爆2日前の4日に疎開先を出発、6日に帰宅の
予定だったがそのまま行方不明に。ミツノさんは6日朝7時31分の
空襲警報解除直後、紙屋町の住友銀行へ行くと皆実町の家を出たこと
は同居人の証言がある。皆実町から市電利用だと紙屋町の住友銀行へ
は8時過ぎには着く計算になり、おそらくは8時半の開店を待って銀
行の玄関前に座っていたであろうと想像される。
昭和46年1月当時遺体収容にあたった元兵士が8月10日朝、住友
銀行玄関の石段で女性の遺体を収容したと証言した。
「数千度の熱で焼かれ、爆風で吹き飛ばされたが、ちょうど石段の上
の柱あたりにへばりついたように黒い塊が付いていました。頭はなく、
衣服も焼けてしまってまっ黒。腹部あたりにはすでに白いウジが湧い
ていました。遺体を取り除くと、石の上に緑色の影がくっきり残って
いました。それまで私はたくさんの焼死体を見てきましたから、骨格
だけで男女の区別はつきます。あの遺体は子供かと思うくらい小柄な
女性です。間違いありません。」
入口でミツノさんを見かけ挨拶を交わしたという決定的な証言が得ら
れた。
「8月6日の朝8時頃、私はオート三輪で八丁堀を出発しました。住
友銀行の前を通ったのは、5分かもうちょっと過ぎたころだと思う。
すると、ミツノさんが玄関前の石段に座っていたので、「やあ、越智
のおばさん、元気かいね!」と声をかけると、満面に笑みを浮かべて
「ハーイ、元気ですよ!」と、答えたんだ。右手を上げてね。そのま
ま別れて御幸橋を少し渡ったとき、ピカに出合った。銀行で声をかけ
あって10分くらいだから、まずあのままあそこに座っとったじゃろ
うと思うよ」
これらの証言を受け、現在「人影の石」には「佐伯郡沖美町にお住い
の遺族の方から、この人影は、自分の母親である越智ミツノさん(当
時42歳)ではないかとの申し出がありました」と表示されている。
なおこの「人影」は最新の学術調査によって「影」ではなかったこと
が明らかになっている。
「広島に投下された原爆の熱線で人の影が焼き付いたと伝えられてきた、
広島市の平和記念資料館に展示されている「人影の石」は、有機物が付
いたものであることがわかった。資料館の依頼で奈良文化財研究所が調
べた。衣類や人間の皮膚などの生体成分の可能性があるが、断定はでき
なかった。」
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うちに蛆がわいていた。はじめは背中の拳のはいるくらいの傷が、真っ白く光って
盛り上がっているのを見て、「飯粒でもつめてあるのか」と思った。飯粒と見たの
は、白い蛆の大きなかたまりだった。傷の中に、握り飯をつめたように、びっしり
蛆がつまっている。(略)私はピンセットで蛆を一つ一つ取り出した。ピクリ、ピ
クリと動いてつまみにくい。時間がかかる。何度もやっているうちに、私もM君も胸
がムカムカしてきた。こういう患者が百人からこの廃墟にのたうっている。(略)
「長崎で被爆した医師の手記より」
その日、自宅の台所にいた祖母は、皮膚にちりちりとした痛みを感じたらしい。
(なんだろう?)
と思った次の瞬間、大音響と共に、地震のような振動で家具は倒れ、陶器は跳ね回った。
理由も判らず、土間に叩き付けられた祖母は、地震で家が崩れると思って、外に飛び出した。
祖母の目に飛び込んできたのは、真っ赤な光。火災なのか、ピカの光なのかは覚えていないと言った。
祖父の勤めていた工場の方角が燃えている事に気が付いた祖母は、おひつに水を汲んで消火の手伝いをしようと走った。
そして、駆ける事30分ほど(草履だったし、足が遅いので駆け足程度の速度)炎で進めなくなり、結局周りと一緒に逃げ惑ったと言う。
そのころ祖父は、工場の瓦礫の中に転がっていた。コンクリ囲まれた場所にいたので、上から降ってきた屋根の下敷きになったそうだ。
周りの救助も合って、やっと這い出た時には、真っ赤な地獄のような光景が目の前に広がっていた。
迫り来る炎と、まだ埋まっている同僚達。動ける者達だけで、火が工場を焼き始めるまで、助けて回ったが、大量の同僚が焼けて死んでいった。
その日、祖父母は会うことが出来なかった。逢えたのは次の次の日であった。
祖父の名前を呼びながら、思いつくままにさ迷い、助けを求める人も振り払って、祖父を求めていた。
辺りは死人と妖怪の様な人々。そんな地獄の中を、祖父の名を呼びながら、唯、呆然と歩いていた。
反対に祖父は、同僚を助けられなかった悔いからか、人を助けていたらしい。
しかし、助けても助けても、崩れ落ちていく様に死んでいく人々。道端で死んでいる人々を見ても、
(歩くのにしたいが邪魔だ)
としか感じられなかったと教えてくれた。多分、その時はもう狂っていたのだろうと。
落ち合った2人は、祖父の会社近くの病院を手伝っていたが、祖父は髪の毛が抜け始め、口の中は、いつでも血の味がしていたと言う。
とうとう、祖父が体を痙攣させながら倒れた。パニックに陥る祖母を押さえ、診察した医師は、
「栄養のあるものを食べる事が出来れば、助かる見込みも大きいのだ」
と聞き、祖父を連れて、二人の実家のある、郊外の集落へと戻っていった。
その頃には、ピカが危険なものであると、話も伝わり始めていた。
「うつるのではないか?」
そう考えた家族は、2人の住居をこうえと定め、母屋には入らない様に申し付けたと言う。
終戦。一年余りの月日は流れ、農家の豊富な食料の御蔭で徐々に体力を取り戻した祖父に、家族は家から出て行く様に言った。
その頃には、悪い噂はすっかりと広まり、特に農村部では、家族に被爆者がいると、結婚できないとまで言われていた。
村の人たちに別れを言いたいと言った祖父母に、家族は
「村人達には、お前達は、広島で焼け死んだと言ってある」
と言ったと言う。
逃げる様に故郷を追われる2人。その2人に、家族は出来うる限りの食料とお金、薬として卵を数個渡したと言う。
生まれた長女は死産であったが、次女三女は健康に育っていった。幸せな、夢のような日々が流れていく。
幸運な事に、祖父母は健康なままであった。
そうして、二人の娘も就職し、二人きりの生活にも慣れた、ある日。次女からの手紙が届く。
「結婚を考えている、会ってくれないか」
祖父母は悩んだ。転勤の度に、本籍地を移動させていたからである。
当時、本籍地を変えるのは差別部落出身の人間であると思われていた。
部落出身者が、結婚。しかも相手は元地主の家柄。田舎の人間は、特に差別が激しいと聞いていた。
かといって、被爆者であると言う事は、部落出身者であるよりも差別を受ける可能性があった。
被爆者の娘である。その事だけでも、破談になるには十分な理由となった時代であった。
結局、次女を交えて話し合った結果、相手側に正直に話すしかないだろう、という事になった。
健康の事。被爆者である事。一族との断絶。全てを話したそうだ。
罵声や嘲笑を覚悟していた祖父母に、婿の母は冷静に述べる。
「全て、息子から聞いております。この子は次男です。貴方の家に差し上げましょう。この子もそう望んでいます」
慌てる祖父母に、婿の父親は、
「まあまあ、受け取ってください。本人と、当主(母親)の決めた事です」
「それに、私もこんな人間です。おあいこですよ」
そういって、上着の袖を捲くると、腕に描かれたカラフルな刺青を見せたそうである(どっちが騙されたのだろう?:祖母談)
結婚差別は実際あったよね
祖父が手帳取ったのは娘達の行き先が全部決まってから。
当初のスケジュールでは、広島訪問の予定はなかった。
しかし、8月6日の原爆投下の日を前に、「他の日程をすべて犠牲にしても、原爆慰霊碑に献花したい」というゲバラらの強い願いから予定は変更。
フェルナンデス大尉と駐日キューバ大使の2人だけが随行して、大阪から急きょ広島に向かった。
一行は原爆資料館を約1時間かけてじっくりと見学した。
館内のさまざまな原爆被害の陳列品を見る中で、それまで無口だったゲバラが突然、通訳担当の広島県庁職員の見口健蔵氏に英語で問いかけた。
「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」
https://huffingtonpost.jp/amp/entry/guevara_jp_5f2b936dc5b6b9cff7ed109b/
両親を無くし、天涯孤独となった彼らは弱い者は飢えや寒さで野垂れ死に。残った子も日々の食料
確保で必死。10才の両手片足を失った少女が口と唯一残った片足の指ではさみを使い、口で針を
咥え裁縫の内職をして生計をたてる。闇市の形成と共に、やくざが台頭し、孤児となった子らを
囲い込み鉄砲玉として対抗するやくざに差し向ける。死んでも後腐れがないからだ。
失明した孤児も多い。兄弟のたった2人で生き延びて失明した弟を兄がかっぱらいや廃品回収の
仕事でなんとか生活する。牛小屋のようなバラックで。
孤児を引き受ける寺も多かったが、そこで行われていたことは孤児を使って過酷な農作業をさせて
いたのだ。食事も粗末なかゆ一杯で死ぬ者もいた。栄養失調で全身ぶつぶつが出来ているのに医者
にも行かせない。政府から孤児を引き取ると保証金をもらえる上、過酷な搾取で坊主が丸儲けして
いたのだ。だから広島では孤児となった者の多くが悲惨な目にあっていた。辛い現実に耐え切れず、
ヒロポン中毒となる者が後を断たなかった。
うちに蛆がわいていた。はじめは背中の拳のはいるくらいの傷が、真っ白く光って
盛り上がっているのを見て、「飯粒でもつめてあるのか」と思った。飯粒と見たの
は、白い蛆の大きなかたまりだった。傷の中に、握り飯をつめたように、びっしり
蛆がつまっている。(略)私はピンセットで蛆を一つ一つ取り出した。ピクリ、ピ
クリと動いてつまみにくい。時間がかかる。何度もやっているうちに、私もM君も胸
がムカムカしてきた。こういう患者が百人からこの廃墟にのたうっている。(略)
「長崎で被爆した医師の手記より」
背中にハリネズミのように無数のガラス片を刺したまま、泥まみれになって帰って
きたというのである。私はすぐ木下商店へ出かけて、彼女の背中の傷を診た。背中一
面のガラス片には、思わず顔をそむけたくなる。カンカン照りの暑さの中で膚に粟を
生じる。一センチ長径、二センチ長径の三角、四角のガラス片が五十個、六十個、数
えることができない。突き刺さるということは、ガラス片のもっとも鋭角な部分が、
皮膚を通し筋肉を貫いて肉体に深くもぐりこんでいることである。ピンセットでガラ
ス片を摘まみ引き抜こうとしてもなかなか抜けない。力いっぱい引っ張って、かろう
じて一個のガラス片が抜けるというありさまだ。私はこんなに深く筋肉の中に食い込
んでいる異物傷は、これまで見たことがなかった。彼女はあの日の午前11時、城山
小学校の教員室で、窓を背にして坐っていた。背後の窓ガラスに直角に当たった爆風
の強力な圧力は、それを粉砕すると同時にものすごい力で背中に吹きつけ、薄ものの
夏のブラウスを貫通して背の筋肉に突き刺さった。瞬間二百メートルの爆発力では、
たまったものではない。(続く)
私はガラス片の付け根にマーキュロを塗り、ピンセットで引き抜く。そのたびに
彼女は激痛に耐えられず、悲鳴をあげた。一個のガラス片を抜くのに、ずいぶん
時間がかかる。あまり深く食いいったガラスは、古い切れ味の悪いメスで切って
またピンセットで引き抜く。そのあとをふたたびマーキュロで消毒する。
「もうやめてください」彼女は痛みと疲労と衰弱で、喘ぐようにいう。私も疲れ
た。だが残りはまだ無数、背中一面のガラス片である。「またあした取りましょ
う」私は立ちあがって、ふたたび本原の道をとぼとぼと歩きながら考える。深い
ものは脊椎筋か肺臓に達しているかもしれない。あんまりひどすぎるじゃないか。
「長崎で被爆した医師の手記より」
光線で失明は多いだろうに。
なかなか議題にのぼらないな。
1945年、原爆投下直後の広島で遺体収容に従事した元陸軍水上特攻兵の喜多康巳(こうじ)さん(85)
が30日、大津市中庄2丁目の自宅で、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市)の被爆者証言
ビデオの収録を受けた。
原爆投下の瞬間や被爆直後の人々の惨状を克明に語り「二度とあってはならない」と記録に残す
大切さを訴える。
8月6日の朝、喜多さんは爆心地から十数キロ離れた江田島の水上特攻基地で出撃命令を待っていた。
空襲警報が解除された後、広島上空に飛来した米爆撃機B29から「毛布にくるんだような横に長いもの」
が落ちるところを見た。
次の瞬間ぴかっと光り「飛び上がるほど熱かった」。外へ出ると、きのこ雲がもくもく上がっていた。
部隊は広島に急行。爆心地を流れる川には、熱線や爆風を逃れようとした人が折り重なって浮いていた。
喜多さんは一体一体遺体を担ぎ出して焼いた。
はだしで川へ入って何かを踏んだ同年兵が2、3時間後に亡くなったため、重い軍靴を履き、約10日間
任務を続けた。
「水を飲んで死んだ人間は重たい。それをいまだに覚えている」
と話す。横倒しになった市電の遺体収容ではむごい光景に出くわした。
息絶えた妊婦と赤ちゃんを発見したが、へその緒がつながったままだった。
わけも分からないまま亡くなって
あの世にいけずに迷ってる子がいるのかな
かわいそうに
上級学校の学生が多かった特攻隊と違って学がないから自ら発信もなかなか出来ず
悲惨な経験も胸に押し込めて暮らしていくしかなかった
でも西日本エリアの住民だから東日本エリアの住民ほど耐えて忍ぶって訳じゃないんだなw
吐き出す機会を与えられても墓場まで持って行くような気性はしてませんw
満州方面が多いイメージだったスマン
西日本の方は大抵南方で死んでるイメージ(ソース:見かけた墓石)
まあ「しゃべっちゃう人がどっちに行ったか」って話なので…
シベリアの話も出るには出るけど悲惨美談が多いんだよなロシアのインフラ作りまくったとか
西日本からもシベリア連れてかれた人もいるだろうけど
一定数の「しゃべっちゃう人」の割合なので…
東日本の連隊は満州行ってる。確かに。
満人に餃子習ったりしてる。
満州駐在の軍は精強なんで
南方に引き抜かれて玉砕したりしてる。
レーダーで見ると長崎駅あたりの中心部と
松山町が同じに見えるというもの。
見晴らしの良い山から観察して写真も撮ったそうだ。
どんなことかわからなくても、
えらいのことが起こるのは知ってただろう。
原爆も知っててもおかしくはないわな
ソ連侵攻と違って黙認する理由は分からんけど
チャーチルはアンシンカブル作戦を立てた(米英独がソ連を攻撃)
市の図書館で見て以来なんだが、ネットって無限に情報がありそうで案外ニッチな所に手が届かないんだよな
ゴマ油ってことはちゃんとした救護所でないとこだったんだな
救護所はリバ肝ガーゼ(消毒薬のリバオールと肝油を混ぜた黄色い油に浸したガーゼ)が主流だったって書いてた記憶
よく知ってるね。
ありがと。
爆風で飛ばされたモノがぶつかって致命傷になった人の記事は見たな
当日疎開作業で招集されて多くの中学生・女学生が犠牲になったのだがそのうちの一校
どっかに寄せてあった荷物の方は割と無事だったのに
学生達は集まっていた場所が運が悪くて爆風で色々飛んできたモノとかにやられ…
尚、当日先生が集合時間を勘違いしててまだ爆心地から離れた学校に学生がいて直撃免れたところも
何もなければ先生タダじゃ済まなかっただろうけど虫が知らせたのか
瞬間的な焼死?
はだゲンでは、釣り輪につかまったまま死んでるけど。
そんなひまもなかったんだね。

